我が町秋津川の歴史を語るに当たり、忘れてはならないのが貴重な遺跡の存在であり、それは、田辺市市史にも記されています但馬遺跡であります。

 同遺跡は、田辺市秋津川2989番地の但馬の地にあり、同遺跡からは、縄文時代の中期のものと認められる石斧、磨き石のほか少量の土器の破片が発見されています。

 このように、秋津川の歴史は古い縄文時代から語らなければなりません。

 縄文時代の歴史を経た秋津川は、平安時代の藤原一族が摂政の時、熊野別当牟婁の地秋津荘(これは秋津谷一円の呼称)と称し、下村・中村・竹藪・谷川村の四ケ村からなり、秋津荘の支配者は、目良弥次郎氏で地頭と呼ばれ、徳川時代には大庄屋で秋津谷の統率に当った。

(参考 現在田辺市による自治会組織の秋津谷ブロックは、稲成、むつみ、秋津、上秋津、秋津川となっています。)

  江戸時代の享保7年から9年の3年間に亘り悪疫流行し、この間に、百数十名の病死者が出、現在のような医療機関もなく、古老の話では、「コレラ」だとか「腸チフス」「赤痢」等とのことだったが、病名は判明しなかった。

  村人は、こんな恐ろしい病気を二度と村に入ってこないようにと、村内に24ヶ所にお地蔵さんをおまつりし、供養することとした。

  地蔵さんの1番所は桃源山萬福寺で最後の24番所は中向釈迦堂となり、 現在もこの地蔵尊は、地元住民達により供養を続けており、餅投げ等行われている。

  田辺城主安藤家(安藤直次)三万八千石の配下であった秋津川村は、禄高500石で村の守りとして、下村・中村に中峯城、竹藪には花光城、谷川には下崎城があり、それぞれいざという時に最寄りの城にたてこもり敵に対処していた。

  明治4年の廃藩置県令により紀伊国田辺県牟婁の郡秋津川村となる、翌年には、和歌山県西牟婁郡秋津川村となり、下村・中村・竹藪・谷川は、字となり、字ごとには多くの大字が適当につけられ、現在もそのままの名称で呼称されている。

  当時村人には、名はあれど姓がなく字名の下に名前だけをつけて呼んでいたものであり、下村○○兵衞とか中村○○兵衞という風に名乗っていた。

  当時の土地の有力者であった三氏には姓がつけられ、その三氏とは、田中、坂本、榎本氏であった。

  更に当時は、子供が生まれても7歳にならないと届け出をしないことになっていた。

  明治9年5月5日に秋津川村中村小字森ノ尾(山の上)に校舎が新築され、第7番学区予章小学校を創立、教員は久保尚賢氏で生徒30~40名で開校しました。

   明治14年には、校名が鷹尾小学校と改称、翌年の明治15年12月には、通学児童のため、竹藪・谷川に分校が設置され、当時の生徒数は、120~130名であった。

   その後、分校が2年で廃止され、明治26年4月には、秋津川尋常小学校と改称されました。

   このように多くの変革を経て、昭和32年12月、総工費10,580,000円の鉄筋2階建ての村立秋津川小学校の校舎が完成し、同月8日に父兄140名の協力により移転しました。

  翌昭和33年1月20日から待望の学校給食が開始されました。

  明治6~7年にかけて、各人に姓をつけよとの達しにより、各人は適宜考えて、山の下に住む者は、山下、大きな木の下に住む者は、木下とそれぞれ届けて名乗った。

  一部秋津川で「平」とつく姓、沖平、前平、蝉平、平山の方々の先祖は、落ち武者平家の一族ではないかとの説もありますが、詳細は不明です。

  明治10年以降の村人達は、山を開き畑や田をこつこつと造り、稲を植え、野菜をつくり、村ほとんど全戸と言って良い程炭焼きを業として生計をたてていたものである。(備長炭は江戸時代から焼かれており文献では秋津川が発祥の地として紹介されている。)

  紀州備長製炭技術者であった坂口延一氏は、「炭焼きは、親の死に目にも会えない程シビアな仕事である」旨炭焼きの歌で紹介されております。

  明治22年8月に大水害が発生し、県下全般に被害が広がり、県下では、家屋への浸水や流失が1万戸近く、死者が1千人以上あり、ちなみに秋津川村も幾多の家屋の流失や人命が奪われました。

  村の古老の話では、その雨は、まるでバケツの水を覆えすようなすごい雨の量であり、それが数日間続いたそうです。

  この水害の4年後の明治26年にも二番水害と言われた水害があり、田畑の流失数多くありました。

  明治36年7月8日にも、かねてよりの大暴雨が大洪水と化し、道路の陥没、田畑の流失、橋梁の破壊はじめ山崩れによる民家全壊等48名の方々が圧死する等尊い人命が奪われました。

  昭和22年5月3日、村立秋津川小学校に併置して、村立秋津川中学校(初代校長 稲井清吉氏)が開校しましたが、一部生徒は、山の上の中学校から机等自分で当時の中村会館まで運び授業を受けていました。

 昭和23年5月18日の村議会において、中学校の新築議案が上程され、3ケ月後の昭和23年8月16日の村議会協議会において正式に校舎建設が議決されました。

 当時の村長は、深谷卯吉氏、助役藤谷瞭一氏、収入役田中光澤蔵氏、村会議長 坂本盛一氏、副議長坂本利雄氏、村会議員は、宮脇藤四郎氏、上玉貞次氏、山崎円平氏、谷口栄一氏、滝本義男氏、木下伊吉氏、大澤伴吉氏、西尾新十郎氏、西尾長一氏で皆様方は議会運営に精励されておられました。

 新築中学校の資金は、地元負担金、国庫補助金、大蔵省借入金等総額300万円を要して、昭和24年5月に、現在の木造瓦葺きの校舎が完成し、築後60年以上経過していますが、田辺市内にあっては貴重な建物の一つとなっています。

  昭和62年には、当時の製炭技術者(指導者)の木下伊吉氏と同校の先生が地元で生産している紀州備長炭の硬さと音色の素晴らしさに着目し、炭琴という楽器を日本で始めて開発しました。

 この炭琴楽器を積極的に授業に取り入れた結果、各方面からの反響等大きくテレビ取材等を受け、炭琴楽器は、地元のみならず、全国的な広報効果をもたらすこととなりました。

  昭和30年10月1日には、今まで秋津川村でありましたが、近隣6村と合併し、牟婁町となり牟婁町秋津川と呼称され、9年後の昭和39年10月15日には、田辺市との合併により現在の和歌山県田辺市秋津川となりました。 

   秋津川での梅つくりは、昭和30年ころより、製炭者はじめ多くの農業者が田畑や山林を開墾して雑梅の栽培に従事していましたが、昭和40年に入り、紀州梅の主力「南高梅」が品種改良され、現在に至っているのです。

   この間の昭和61年から平成7年にかけて、県のパイロット事業により、市、県の補助を受け、中村区に植栽面積32ヘクタールを有する第1、第2工区の巨大パイロットが完成しました。

  昭和41年2月5日、萬福寺は、火災により全焼し、重要な保管資料は焼失したものの、昭和42年には、臨済宗妙心寺派萬福寺の境内に西南の役から先の大戦(世界第二次)で戦死された方々をお祭りする館「英霊堂」での落慶法要があり、この堂には、戦死されました103柱の御霊をお祭りし、毎年、萬福寺住職様、遺族会、町内会との合同慰霊祭を開催しています。

 昭和59年ころの11月には、活力ある秋津川「ふるさとまつり」が開催されることになり、まつりは、地元の皆さんが精魂こめてつくられた農産品の品評会、バザーの開設、お楽しみ抽選会、婦人会の皆様がつくられた「炊き込みご飯」、有志の方による「茶がゆ」の提供等地域住民が一体となり地域の活性に向けた活動が現在も展開されています。

  平成6年10月には、秋津川公民活動の一環として12名のメンバーにより「炭琴サークル活動」が始動し、炭琴の魅力を全国に発信し、各イベントで活躍しています。

  平成9年7月には、備長炭の製炭技術の後世への伝授等を目的として、秋津川中村区に道の駅「紀州備長炭公園」が田辺市の支援により発足し、公園は、秋津川振興会が維持管理しています。

  同公園には、発見館はじめ喫茶店等の施設があるほか、炭焼き窯が5箇所あり、製炭のための宿泊施設も設けられています。

  公園の利用者の皆様の中には、外国からの方々も多数おられます。

  また、公園では、4月には「春まつり」12月には、「山まつり」が開催されていましたが、最近では、「山まつり」のみとなっています。 

  平成28年12月15日、イタリアのローマで開催された国連食糧農業機関において、養分に乏しい斜面を活用して、備長炭などの原木となる薪炭林を残しつつ、梅林を育成し、400年にわたり高品質の梅を持続的に生産してきた農業システムが「みなべ・田辺の梅システム」として世界農業遺産に認定されました。 

梅作り精励している秋津川もエリアに入り、生産者(製炭者、梅農家)はじめ関係者一同は、この認定が梅つくりなどの起爆剤となり、地域産業の活性化に繋がることを願うものであります。

  今日の秋津川にあっては、少子高齢化がスピード感もって進んでおり、人口は、700人を下回り、この内、70歳以上の高齢者が190余名あり、全体の3割近くを占め、空家や休耕田畑が増加しているほか、生徒の減少による小中学校の統廃合問題など課題多数抱える俗に言われている「限界集落」に陥落する手前の状態であることの危機感が漂っています。

(秋津川の歴史の作成に当たっては、「秋津川小学校百年誌」、秋津川中学校創立55年記念誌「希望の花」を参考にさせていただきました。)歴史 について知っていることをぜひ教えてください