出立王子跡〇出立王子跡
 熊野九十九王子のひとつである出立王子は、現在、八立稲神社に合祀されています。、田辺第三小学校の登りロに県史跡の出立王子跡があり、小さな祠が祀られていますが、古くは、西郷の御所谷(現・田辺市上の山7-9番地)付近にあったと推定されます。熊野道は、この出立から大辺路、中辺路の両道に分かれ、中辺路はこれまでの海岸沿いの道からけわしい山路にさしかかります。出立の地名は万葉集に「出立の松原」と詠まれ、平安末期の『中右記』には「田之陪(たのべ)に行き王子社に奉幣」と見え、田部(たなべ)王子ともいわれたりしました。
  この王子社の前方にかつて塩垢離浜がありました。建仁元年(1201)の御幸記では後鳥羽院に同行した藤原定家が不覚にも風邪をひき、出立での潮垢離を辞退したところ、厳しく叱責され、やむなく潮浴びをしたと伝えられています。熊野詣は難行苦行の旅で、厳しい精進潔斎を必要としましたが、出立の地は熊野路で塩垢離をとれる最後の地でもありました。また、『御幸記』に「宿所甚だ広し」「美麗にして河に臨み深淵あり」と記され、『修明門院御幸記』には「御所は海岸の上なり」と記され、付近には御所や宿舎もあり、熊野道の一大拠点にある王子でした。

南方熊楠と出立王子
南方二書での言及
 紫葉は近くまで、この田辺辺の山野が名産なりしが、今は一本もなし。紫葉を見たものなし。ホタルカズラ、ヒメナミキ、いずれもこの田辺辺の出立松原に多くあり、開花の節はなはだ行客の眼を恰ばしめたり。しかるに四年ばかり前に、小学校建築という名目の下に、この出立松原をことごとく伐り(村民松を抱えて哭するを、もぎはなして伐りつくせしなり)しため絶滅す。その松は白蟻にかまれ、小学用にならず、今に幾分を腐らせ放捨し置く。さて魚類田辺湾へ来ること少なくなり、夏日は蔭なく、病客多くなり大閉口、その学校もかかるつまらぬ木で立てしゆえ頽れ落ちる。この出立松原は『万葉集』にも顕われ、元禄のころ浅野左衛門佐という人数万本を植え副えしなり。ここに載するところの紫葉、ホタルカズラ等は、他にも産所あれば、わざわざ惜しむべきものにあらず。しかし素人の考えとちがい、植物の全滅ということは、ちょっとした範囲の変更よりして、たちまち一斉に起こり、そのときいかにあわてるも、容易に恢復し得ぬを小生まのあたりに見て証拠に申すなり。