植芝盛平西八王子宮【南方熊楠顕彰会】西八王子宮
 東八王子社が、明治6年上ノ山東神社と改め、明治40年に出立神社(出立王子)、八幡神社、明治42年に上ノ山西神社(現西八王子宮)を合祀、稲荷神社を移し、八立稲神社と社号を改めました。この西八王子宮ですが、熊楠は「西ノ王子」と呼んでいます。しかし、熊野古道の王子ではありません。

明治末【南方熊楠顕彰館】十四 南方二書19-20頁
西牟婁郡西ノ谷、西ノ王子合祀跡より田辺湾を隔てて瀬戸岬を望む、絶景の地なり。
右辺の密林ある岬は、目良の王子跡なり。これも滅却され、さんざんに濫伐さる。此辺より曲玉等出しも散佚す。
この合祀跡も今に合祀前きの社へ一人もまいらず。坊主に経よませ祭典し居る。委細は「二書」で見られ度候。【南方熊楠顕彰館】
2014年夏【南方熊楠顕彰会】合成【南方熊楠顕彰会】

 

 

〇以下南方熊楠 梟のごとく黙座しおる』(飯倉照平著)より
 この西の王子の場面に登場するのが、「兵隊帰りの植芝なる豪傑」で、それは西の王子の近くに住んでいた若き日の植芝盛平と思われる。日露戦争に従軍したのち大阪の連隊にいた植芝は、長男なので除隊させてほしいという父親の頼みで、1906年に郷里に帰り柔道の道場を開いていた。当時、植芝はまだ二十代後半であった。
 当町近所西の谷村も社費の件に付き多数は不納説、少数(金持ち連)は利益上より(海藻を取る)今年のみ納むべしとの争いの所ろ、兵隊帰りの植芝なる豪傑の為に打負け不納に決し、小守重保氏に頼み復旧請願書認め中なり。    
(西面欽一郎にあてた1911年1月25日付の手紙)

 後年、合気道の開祖として知られるようになった植芝は、自分が若いころ神社合祀反対運動に参加し、熊楠のもとで奮闘したと語っていたことが多くの伝記に記されているものの、その詳細は明らかでない。1950年ごろ、茨城県岩間に住んでいた植芝をプロレタリア文学者の貴司山治が訪ねたことがある。その時、植芝は、熊楠と自分は「熊よ」「盛平よ」という刎頸の間柄で、二人とも「田辺の町のにくまれ者だった。しかし乱暴なのは五十人力の私よりも学者の熊の方だった」と語ったという(乾元社版全集月報3)。

 1912年1月5日には、熊楠は西の王子の「復社祭り」に招待されている。出席しなかったら、翌日、祭礼のご馳走と鏡餅がとどけられたと日記にある。餅は翌年の祭礼日にもとどけられている。

 

 

 

 

 


 刎頸の間柄と植芝はいいますが、現在のところ、熊楠が植芝について語っているのは後にも先にもこの部分のみです。これらは植芝が大成してから語ったことで、真実味に乏しいものです。

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