植芝盛平キャプションを追加 田辺の代表的古刹。真言宗御室派寺院で、「弘法さん」の名で親しまれています。聖徳太子開創といわれ、弘法大師が近くの淵(御影淵)に姿を映して彫ったという大師像にまつわる伝説も残っています。田辺市街、田辺湾を見下ろす境内の墓地には、南方熊楠植芝盛平の墓があり、南麓には熊楠がよく採集に行き、新種の粘菌(変形菌)アオウツボホコリを発見した猿神社跡あります。
 寺の位置する丘陵(標高30m)の谷頭部には、縄文早期の高山寺式土器が出土することで有名な高山寺貝塚(昭和45年8月国指定)があり、長澤蘆雪の寒山拾得図、住持義澄の日記・木造聖徳太子孝養之像等の県指定文化財も伝わっています。

高山寺案内図はこちら(南方熊楠顕彰会制作)

※正式名称は2通りあり、「南面山高山寺」もしくは「正南山高山密寺」といいます。

南方熊楠の墓

 

 

高山寺貝塚
 高山寺貝塚遺跡は田辺湾に臨む標高30メートルの丘陵上、高山寺の寺城内にあります。会津川の右岸、現海岸線から約1.3キロの位置にあり、貝塚はこの丘陵の西南・西・東北の斜面三ケ所に点在し、第一号貝塚、第二号貝塚、第三号貝塚と発見順に名付けられています。
 この貝塚は昭和13(1938)年の秋、墓地の拡張と道路新設工事中に初めて発見されました。調査によって、海水産の貝殻からなる近畿唯一のもので、しかも縄文早期の高山寺式土器をだす標式遺跡として有名になりました。
 昭和14年3月、第一号貝塚から北へ約40メートルの地点、西南傾斜面で電柱が立てられたときに貝塚が掘り出されましたが、貝塚として確認されるには至りませんでした。ところが昭和41年4月、この電柱から近接した場所で下水管工事のため長さ約10メートル、探さ約3メートル、幅約80センチの溝を掘ったところ、約60センチの厚さで貝殻が堆積していることがわかり貝塚であることが確認されました。これが第二号貝塚です。
 昭和39年10月高山寺本堂改築に伴って東北の斜面に基礎工事を始めたところ貝層にあたり貝塚のあることが確認されたので、昭和40年12月に発掘調査が行なわれましたが深くて地山に達するにいたませんでした。
 昭和55(1980)年、高山寺境内の西側に駐車場が造られることになったのを契機にして、三か年計画でこの丘陵上が調査されることになりました。初年度は駐車場予定地を中心に行われ、中近世の陶器類、弥生土器等が採集されました。次いで昭和56年は第一号貝塚の斜面を登った平坦部が掘られましたが、近世の墓地跡でそれ以前のものはありませんでした。最後の調査は昭和58年2月、第三号貝塚の範囲確認調査をおこなったところ、貝塚中心に縄文土器と弥生土器とが混在するだけではなく、貝層下の地山直上にある押型文土器の包含層の上まで弥生土器が僅かでしたが認められました。
 このように高山寺貝塚とその周辺部との調査により、この丘陵には三か所の貝塚の他にほぼ全域にわたって弥生後期の土器と遺構が存在することが判明しました。
 代表的な遺物がいわゆる高山寺式土器と呼ばれる押型文土器で標式土器です。

〇リンク
 南方熊楠ゆかりの地 高山寺・猿神社

 

和歌山県田辺市稲成町392
TEL.0739-22-0274