鳥山啓翁顕彰碑【南方熊楠顕彰会】鳥山啓翁顕彰碑
 鳥山啓翁は天保8年3月田辺大庄屋田所家に生まれ藩士鳥山家を継いだ。天性の才能と抜群の記憶力を以て努力勉強、和歌国学英語地理化植物絵画等あらゆる方面に長じ、田辺藩学校、和歌山師範、和歌山中学等に職を奉じた後、東京華族女学校に勤めること20年、その間多くの著作があり、有名な軍艦マーチの歌詞や、旧田辺高等女学校の校歌をも作った。大正3年歿。齢77。私たちは南方熊楠翁さえ、先生、と呼んで尊敬したこの優れた学者が当地出身であることを誇りとし、その功績を顕彰すべく田辺市政35周年に当り、ここに碑を建てた。
                          昭和52年11月20日
                           鳥山啓翁顕彰記念碑建設委員会


鳥山啓
 鳥山啓は、江戸時代後期の天保8(1837)年、田辺の大庄屋田所顕周の次男として生まれました。啓が鳥山姓になるのは、19歳の時に田辺安藤家の家臣鳥山純昭と養子縁組し、その娘清と結婚したときです。明治以降に使った「啓」の名は、その才能を見込んだ田辺藩主安藤直裕から「衆に先んじて蒙を啓け」という意味で与えられたと伝えられます。七歳頃から、真砂丈平について漢学、石田三郎(酔古)の許では本草学を学び、14歳の頃には和歌山へ出て本居内遠に師事、16歳からは熊代繁里に師事して国学を学びました。
 国学とは、漢学と対になる言葉ですが、八代集をはじめとする和歌や、『源氏物語』『枕草子』以下の物語・随筆、さらには『古事記』と『日本書紀』以下の歴史書を読んで、日本という国の文化を総合的に学ぶことをいいました。「学問」ということばが、論語にはじまる「四書五経」以下の漢文を読んで、中国の文化を学ぶことをながらく意味していたことに対して、「日本を学ぶ」という意味で国学という学問が体系だっていたのは近世(江戸時代)にはいってからのことであり、松坂(当時は紀州藩)の本居宣長はそれを確立した人です。啓が師事した内遠は、その宣長の本居家を継いだ人でした(本居家は代々弟子が養子入りして家系を継いでいます)。啓は、漢学と国学という、文化系学問のふたつの大きな系統を幼少時から学んだのです。
 また、本草学とは植物をはじめとする自然界の諸物(動物・鉱物も含む)についての知識を、特に薬毒としての効能の面から集積するものでしたが、紀州藩では小野蘭山(1729-1810)や、その孫弟子にあたる畔田 翠山(1792-1859)が活動した学統がありました。啓が幼少時に、本草学という理科系の学問と漢学・国学という文化系の学問の双方を学ぶことが出来た背景には、紀州藩という幕藩体制下の大藩での学問的伝統の蓄積がありました。
 そうして、近世日本の高い教養水準を学ぶことの出来た啓の青年時代は、幕末の動乱期にあたっています。彼が16歳で熊代繁里に出会った嘉永61853)年は、その幕開けとなるペリー提督の浦賀来航の年でした。啓は、当時邦訳が増えつつあった西洋の科学・技術書によって、西洋近代科学の学習と、英語そのものの学習を独自にしていたようです。そうした、時代の必要に応じた幅広い鳥山啓の学問的素養のすべては、和歌山中学で彼に博物(理科・生物学)を学んだ南方熊楠におおきな影響を与えました。熊楠は後年の回想で、鳥山先生が「和漢蘭に通じ…博識だった」と述べています。
 西洋の科学・技術水準を知り、世界の大勢について知るところのあった啓は、幕末の動乱期には開明派の立場から奔走し、そのため安藤家当主の直裕のよく知るところとなったようです。明治2(1869)年、紀州藩の支藩だった田辺が田辺藩となり、田辺藩校が設立されたとき、啓はそこで英語を教えることになりました。明治4年頃には神戸の英国領事館に勤務し、実地に英語で仕事をしていたといいますから、その語学力は十分だったのでしょう。明治5年に新しい学制のもと設立された田辺小学校で教師となり、また田辺伝習所教員として教師養成にもつとめました。この頃鳥山は、縁続きだった多屋寿平次らとともに青少年向けの教育読み物や理科系学問(物理学・天文学・自然地理学)の入門書多数を刊行していますが、新しい時代の新しい理科系教育を形作っていった30台の頃の鳥山の事績は、同世代人だった福沢諭吉らの仕事と並んで、近代日本史全体の中でも重要なものといえます。
 明治9(1876)年、和歌山師範学校に着任、明治12年には新設の和歌山中学で博物学教師となりました。やがて明治191886)年には、かぞえ年50歳で上京して華族女学校で理科教授に就任、明治39年に同校が学習院と統合されたのを機に辞職するまで20年間勤め、その後も東京で余生を過ごしました。
 日本を代表する行進曲として今も広く知られる「軍艦」マーチの詞を書いたのも東京時代の明治301897)年ですが、それに先だつ日露戦争時に作詞した「黄海の戦」も、当時は広く知られ、他にも歌曲(琵琶歌、軍歌)のための作詞は多数ありました。長歌、和歌の創作は生涯にわたり、華族女学校の同僚下田歌子(宮中で和歌の指導をし、昭憲皇太后から「歌子」の名を与えられた)とも交流が深かったようです。晩年から没後にかけて、それらの創作(歌と随筆)は『長庚舎歌文集』三冊にまとめられました。長庚とは「夕づつ(宵の明星)」のことで、啓が好んで別号として使った言葉です。
 大正3(1914)年2月、東京の自宅で亡くなる直前に詠んだという辞世の歌が伝えられています。

  草に木に 虫に鳥にも なりぬべし 十まり四つの 元にかへらば

 輪廻転生の無常観と自然科学的世界観が自然に読み込まれた達観の境地を伝えたこの歌は、鳥山啓という人の事績とその生きた時代を象徴しているようです。

                                                         「第32回月例展 熊楠とゆかりの人びと 鳥山啓」より

 

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