皆さん、武蔵坊弁慶を知っていますか?

実はかの有名な武蔵坊弁慶は和歌山県田辺市出身!武蔵坊弁慶になるまでの生年は分かっていないが紀伊国「和歌山県」で誕生した。

生まれた当時から2、3歳ほどの体つきで歯がすべて生えそろっており、髪の毛が肩につくほど長かったといわれている。

そのため鬼子と呼ばれ父親に殺されそうになったところを叔母に助けられ、鬼若となずけられ京都に住むことになった。

その後比叡山「お寺」に入れられるが勉学に励まず、乱暴しすぎたため追い出され、その後武蔵坊弁慶と名乗り乱暴を繰り返した。

生年は分かっていないが紀伊国「和歌山県」で誕生した。

義経との出会い

乱暴を繰り返していた弁慶は1000本の刀を奪う悲願をする。弁慶は道行く人々を襲い通りかかった刀をもつ武士と決闘し999本まで集めたが、あと一本というところで五条大橋で笛を吹きつつ通りかかる

牛若丸「源義経」と出会う。弁慶は牛若丸の腰に付けた見事な太刀に目を止め、刀をかけて挑みかかるが、橋を飛び交う身軽な牛若丸にかなわず返り討ちにあった。弁慶は降参してそれ以来牛若丸の家来になった。

義経の忠臣•その後弁慶は義経の忠実な家来として活躍し、平家討伐に功名を立てる。兄の源頼朝と対立した義経が京に落ちるのに同行。弁慶は智謀と怪力で義経一行を助ける。

•一行は加賀国安宅の関所で冨樫左衛門に止められてしまう。なお源義経は指名手配中でそのため義経一行は正体を隠さなければならないのである。そこで弁慶は偽の歓進帳を読み上げ、疑われた義経を自らの杖で叩いた。富樫は弁慶の嘘を見抜いていながらも弁慶が主人を思う心情を思ってあえてだまされたふりをして義経一行は無事に関所を越える。

弁慶の最期•義経一行は、奥州にたどり着き藤原秀衡の元へ身を寄せる。だが秀衡がなくなると子の泰衡は頼朝の威を恐れて、父の遺言を破り義経一行を襲った。

•多数の敵兵に弁慶は義経を守って堂の入口に立って薙刀をふるって戦い、雨のような敵矢の雨を受けて立ったまま死亡。

武蔵坊弁慶にちなんだ言葉

•弁慶の立ち往生=忠義の意を表す言葉

•弁慶の泣き所=弁慶のような男でもここを打てば涙を流すほど痛いとされる急所の事で膝頭から足首の上までの部分のである。

•弁慶の七つ道具=弁慶が持っていたとされる七つで一式のものを七つ道具と呼ぶようになり今でも「探偵の七つ道具」のようなつかわれ方をされる。

•内弁慶、外地蔵=家の中では強気になって威張り散らすが外ではおとなしい人間のことである。特定の場面においてのみ威勢を張る様子という意味とされています。を終える。このとき弁慶はたたまま死んだとされ弁慶の立ち往生と厚生に語り継がれています。

和歌山県田辺市の武蔵坊弁慶についての取り組み•武蔵坊弁慶の出生地と視される田辺市では、弁慶にゆかりのある史跡が多く、弁慶の誕生を記念して植えられた弁慶松は現在六代目となり、見事な枝ぶりを見せています。初代の弁慶松をしのんで、片町弁慶松跡地には弁慶松モニュメントが建築されそのほかにも闘鶏神社にある釜、八坂神社の腰かけ石などがあります。

•JR紀伊田辺駅には弁慶像が建てられ、田辺市のシンボルとしています。

毎年十月上旬に弁慶祭りが開催されます。弁慶祭りでは演劇弁慶伝説や紀州弁慶よさこい踊り、田辺花火大会、ファーマーズマーケットなどイベントも盛りだくさんなのでぜひ来てみてください