東内野遺跡は昭和51年に発掘された遺跡で富里市は言うに及ばず,千葉県を代表する旧石器時代の遺跡として研究者の間で著名です。この遺跡を一躍有名にしたものは,1万数千点に及ぶ膨大な量の石器と,その中に含まれる珍しい形をした石器の存在でした。
他に類を見ない石器であったことから,この遺跡を発掘調査した篠原 正氏によって「東内野型尖頭器(ひがしうちのがたせんとうき)」と命名されました。その後,このような形の石器が出土した場合には,日本全国のどの遺跡から出土してもこの名前で呼ばれるようになったのです。この石器は基の部分に柄を括り付けることを考えて作られていると考えられることから「尖頭器」の仲間として扱われることになりました。一番の特徴は右側の側面に見られる「樋状剥離(ひじょうはくり)」と言われる特殊な加工が行われていることにあり,この「樋状剥離」と名付けられた加工は石器から石器を生み出す方法だったことが遺跡から出土した石器同士が接合したことにより明らかになりました。尖頭器から打ち剥がされたものは「削片(さっぺん)」と呼ばれる石器であり,「石刃(せきじん)」と呼ばれる石器同様に木などの柄に埋め込んで,東内野型尖頭器と組み合わせて使用したものと考えられています。
東内野型尖頭器は「石器」としての機能と「石器製作の材料」としての機能を併せ持った石器であり,非常に合理的に作られた石器だったのです。
東内野遺跡のもう一つの特徴として,かつて遺跡の中央に大きな窪みがあり,水を湛えた「池」が存在していたことが挙げられます。これは発掘調査を行った際に広範囲に円を描いて石器の出土する範囲が決まっていたことと,現在でも窪んでいる遺跡中央部の土層を分析した結果,この土層が水中で堆積したか,もしくは水に良く浸かるような状態で堆積(元々は関東ローム層だったものが白色もしくは青白色の粘土に変化している)したものであることがわかったのです。
この他,どの程度の期間・量の水が溜まっていたかを詳しく分析するため,土に含まれる「珪藻化石(珪藻は植物プランクトンと呼ばれる生物で,ガラス質の殻を持つことから化石化して長い時間が経過しても種類を特定することができます。水質などにより住む場所が異なることから,どのような水環境であったかを知る手がかりになります)」の分析を行いました。結果,珪藻化石の存在は確かめられたものの著しく風化しているものがほとんどであったことから,数年にわたって水が溜まるような状態ではなく,長雨などが続いた後,数か月だけ姿を現す「幻の水辺」だっただろうと考えられています。
比較的なだらかな地形が続く富里ですが、近年、市内の地形を詳細に観察してみると至るところに「窪み」があることが分かってきました。このような場所は長雨が続くと湛水してしまい、数か月水がひかないことも多々あります。まさに東内野遺跡と同様の景観を現在でも見ることができるのです。この「窪み」の正体ははっきりとはわかっていませんが、千葉県がまだ海の底だった時代の地形がそのまま地表面に投影されているとも言われています。
東内野に旧石器時代人が訪れていた時期は,寒冷な気候から温暖な気候に差し掛かった時期でもあり,天候も今とあまり変わらない状況だったと考えられます。雨の多く降った時には水が広範囲に溜まり,動物の水呑場として,また,旧石器時代人の狩りの場として多くの命を育む場所となっていたのでしょう。
下記リンクも参考になります。
富里市HP 東内野遺跡