富里市は明治の開墾期に多くの人々が現東京や埼玉から流入をして来るが、それ以前にも市内を流れる主要河川である根木名(ねこな)川、高崎川の流域に広がる低地を舞台に古くから人々の生活が営まれていた。その一つが富里市の北部、成田市との境界に位置する「久能(くのう)」地区である。
大同年間(806-809)に駿河国(現静岡県)の住人、都築刑部久能という人物が観音像を得て小堂に祀り、その後祖先の地である久能村に来て小堂をつくり遷座したと伝えられる久能山観音(潮音)寺があることから、久能(村)地区の成立は平安時代にまで遡るであろう。
この潮音寺から南西に約200m。創建年代は不明だが駒形神社が鎮座し、富里市で唯一の「三匹獅子舞」が今も奉納されている。
久能の「三匹獅子舞」は、約300年前から行われていると言い伝えられており、富里市に現存する郷土芸能の中で最も古いものといえる。例年4月3日と8月の最終日曜日に駒形神社の境内で五穀豊穣や交通安全など、久能地区の人々の息災を願って奉納される。
獅子舞は、頭の大きなものから順に「雄獅子」「中獅子(雄)」「雌獅子」と呼ばれる3匹の獅子が笛と大小太鼓の囃子に合わせて舞うが、別名「やきもち獅子」とも呼ばれ、1匹の雌獅子をめぐる2匹の雄獅子のストーリーが展開される特徴がある。
4 段の場から構成される舞いは、1段目の場で雌獅子と雄獅子がそれぞれの個性を表わし、2段では、3匹が入り乱れ仲良く踊りに興じる。3段では、雄 獅子2匹による雌獅子の奪い合いが始まる。奪い合いは話し合いという形で始まるが、何度話し合っても折り合いはつかず、そのうち雄獅子同士の 喧嘩が始まる。喧嘩の様子はユーモラスで、勝ち獅子は右に左にと大きく飛び回り、倒れた負け獅子が立ち上がろうとしているところに出向き、 「どうだ!参ったか」というような仕草を見せる。結局、奪い合いは引き分けとなり、4段では奪い合いの愚を悟った雄獅子と雌獅子が仲良く舞い、何処かへと去って行くのである。
近隣で行なわれている同種の獅子舞には、勇壮なものが多いように見受けられる。しかし、久能の獅子舞は、勇壮な場面の中にユーモラスな動きを含め、民俗芸能としての娯楽性を備えているように思える。
さて、奉納の舞台となる駒形神社にはもう一つ面白い特徴がある。それは参道の入り口。神社前の道路を挟んで神社と対峙するようにそびえ立つ2本の「スダジイ」の巨木である。古地図によると、先の道路は参道の入り口とスダジイの間を通っていたのではなく、スダジイを回り込むように通っていたのである。この状態を再現して写真を撮ってみると、2本のスダジイの間からは真正面に駒形神社の拝殿を拝むことができるのである。
樹齢は推定300年以上。鳥居の脇に植えられたスダジイが育ったものなのか、はたまた鳥居の代わりとして植えられたものなのか・・・。久能の歴史を見続け、これからも見続けて行くであろうスダジイには畏敬の念さえ覚えるのである。
その他の地区の消えていった獅子たち