十三の里(富里)の物語 について知っていることをぜひ教えてください

富里市は明治22年の町村合併により誕生。それまでは日吉倉村、久能村、大和村、根木名村、七栄村、十倉村、新橋村、中沢村、新中沢村、立沢村、立沢新田、高野村、高松村の十三ヵ村に分かれていました。「十三の里=富里」これが富里の名の由来です。

合併から130年近い月日が流れましたが、現在でもそれぞれの村々の名残を行事や風習に見ることが出来ます。(富里市民俗文化財調査報告に加筆、使用写真は林田が撮影)

 

日吉倉(ひよしくら)のお話

日吉倉の概要

日吉倉地区は富里市の北端に位置し、成田市に突き出したような形状を呈する。集落は台地上とそれを取り巻く襞状の谷津の縁に展開しており、東側には根木名川が流れる。

日吉倉という地名の最も古い記録は、円勝寺太子堂解体工事の際、厨子の天井板に確認された「下総国印旛郡印東庄日吉倉(中略)天和2年(1682)」の銘であると考えられるが、それ以前に遡る可能性も否定できない。また、円勝寺太子堂には聖徳太子二歳南無仏立像(10年に一度開帳。次回は2020年)が残されており、建築業を生業とする人々から往時と代わらぬ篤い信仰を受けている。

文字記録以前の歴史では、富里市唯一である烏山古墳群の存在は見逃せない。現在は日吉台地区に編入されているものの、村の鎮守であった熊野神社境内には現在でも5基の円墳が残されている。 日吉台ニュータウン造成に先立って実施された円墳2基の発掘調査では、甲冑と畿内産須恵器が出土しており、この地に有力な豪族が居を構えていたことを物語っている。また、中世段階に入ると、地方豪族の中から台頭した武士が東台に居を構えたであろうことが、「ユウゲヤマ」などに代表される数々の小字名からも推察される。

明治22年の町村制に関する訓令に基づいて大規模な町村合併が実施された時、日吉倉村は成田町に合併することを考えていたが、富里村誕生には日吉倉村の存在が必要不可欠であった。その後、昭和7年に論田、中広、刈分、大田、橇田、申新田、向山の字区のみが成田町に合併するところとなり、その大字名を不動ケ岡と称した。明治、大正、昭和と長きに渡った分村問題は、昭和32年12月の村議会などによる決議書により決着をみている。

日吉倉は、日常生活や教育面において成田市との緊密な関係が保たれて来た地区であるが、現在でも生活面では成田市に依存しているところが大きい。

円勝寺 聖徳太子二歳南無仏立像太子堂

 

久能(くのう)のお話

久能の概要

久能地区は日吉倉地区の南隣に位置し、日吉倉とほぼ同じような地形を呈する。七栄地区から根木名川に至るまでには樹枝状に開析された大小の谷津が形成されており、谷津田として利用されている。久能の西側台地一帯は江戸時代に佐倉七牧の一つである内野牧となり、野馬の水呑み場や木戸が設置され、久能の人々も野馬狩りの勢子として牧場の管理に携わっていた。

弘化4年(1847)5月、炭仲間総代4名が根木名、大和、久能村等9ヵ村に宛てた議定書には酒々井河岸からの炭の積み出しについての記載があり、農閑期の貴重な現金収入として炭焼きが行われていたことがわかっている。久能地区には酒造業1軒、味噌醸造業1軒、製茶業3軒があった。酒造屋は大火に遭って酒造りを止めてしまい、現在は屋号「サカヤ」と名乗っているだけである。味噌醸造も現在は行われておらず、屋号「ツルイ」として残るのみである。製茶は池上、田中、ツルイの順番で創業が始まったが、ツルイは3年程度で製茶をやめ、現在では田中製茶だけが続けている。明治22年町村制に関する訓令に基づいて大規模な町村合併が実施された時、久能村と日吉倉村は反対の意を唱えた。久能村のその理由は自村一村で独立したいというものであった。

また、市内で唯一、江戸期から開始された三匹獅子舞が伝承されている地区でもある。

久能獅子舞

 

大和(おおわ)のお話

大和の概要

大和は、根木名川の上流にあたり日吉倉、久能と続く地域で自然環境なども同様である。大和は根木名川の西岸の久能と根木名の間に位置している。本村の南側には根木名川から分岐した根木名区地先の谷津が深く七栄に進入している。大和は東側に根木名川の源流があり、北側は根木名川の下流で久能地区に接している。西側は幾つもの谷津が浸入して、斜面地は雑木林で台地には畑地が広がっている。

大和には酒々井町東光寺の末寺でる真照院という寺があり、本尊は大日如来である。安永9年(1780)の火災で弘法大師像などを失い、その後30数年を経て文化7年(1810)に、名主庄兵衛などの助力によって復興している。しかし、その後も建替えを経ているようだ。明治26年にも不審火による焼失の記録が残されている。

神社は、ウブスナである駒形神社の他八幡神社、子安神社、天神様があったが、明治43年(1910)に合祀されている。大和を古文書からみると、富里市で最も古い天正19年2月(1591)の検地帳の写しが残されている。この検地帳は写された時代は不明だが「下総国印東庄大輪御縄打水帳」と書かれていて、古くは「大輪」と表書されていたことが分かる。大和新田は持添新田として開発され、この新田は林畑で、生産性の低い土地であった。享保16年(1731)に新田検地が行われている。天保4年(1833)の大和村家数は20軒、人数104人で、薪炭の生産が盛んであり、農閑期に焼かれた炭は、佐倉炭として江戸に販売されていた。炭は佐倉藩の炭方役人の管轄下に置かれ、大和や根木名、久能で生産された炭は、酒々井町の炭仲間により、河岸からの炭荷積み出し等の事が弘化4年(1847)の古文書に記載がある。安政2年(1855)には寺台村の定助郷に、安政4年(1857)には根木名村の定助郷になっていることが記載されている。

大和には、小字名が30ヶ所あり、その多くは地形的なもので自然に関した地名が多く目立つ。字名は、庄ヶ池下、山吹谷津、根木名下、島影、細身、権現下、久保地、松ヶ下、川栗橋、野田谷津、中兵、大谷、三ツ又、竹沢谷、井戸向、早馬、グミノ木、西ノ台下、西谷津、池尻、山ノ中、中ノ口、松花、出口、庚塚、額谷、古堀、赤坂、池台、二久保があり、地名の多くは自然や地形的な要因で付けられた地名が目立つようである。

大和には野生の福寿草が自生しており、3月から4月頃に黄色い小さな花を一輪から三輪くらい咲かせる。土地の持ち主はその昔、この福寿草を掘り取り、正月の成田山参拝の客に売って貴重な現金収入を得ていたとの話も聞いたが、現在では千葉県内で確実な福寿草自生地であることから市の天然記念物に指定し保護している。また、字西谷津の真照院のある所の東に突き出た台地の北側と南側の斜面地は人工的に削られ、中世の館跡を思わせる地形を示している。寺の西側に当たる墓地の更にその西側には堀があったことが聞き取りにより得られていることから、中世の城館跡が想定されるが地区の人からはそのような言い伝えを聞くことは出来ていない。

福寿草

 

根木名(ねこな)のお話

根木名の概要

富里の北東側を流れる川は根木名川と呼ばれており、上流域にある根木名地区がその名の由来と考えられる。また、江戸時代には「猫名」と表記する場合もあったようである。根木名川の源は葉山地区と大堀地区にあり、ここから流れ出る小川は根木名の小字前川で合流している。この場所では水田工事の際に数枚のカワラケが発見されており、何らかの祭祀が行われていた可能性が考えられる。さらに、この位置から東側の斜面地には弁天様が祀られており、位置的になんらかの関連性を持っている可能性も考えられる。

根木名には市内唯一の「盆綱」行事が受け継がれている。盆綱は、昔は8月7日ころから小学校1年生から高等科(現在では中学3年生)までの子供達が集まって、各家からスグリ藁一束を集めていた。最近では、藁もない家があるので各家から藁代として500円を集めて藁のある農家などから購入している。前日に大人3人位に頼んで盆綱の綱を編んでもらった。そのお礼としてタバコを渡していた。綱には子供が持ちやすいように耳が取り付けられる。これと平行して子供達は盆綱に持って行く提灯を下げる竿をシノ竹で作る。ここに吊るす提灯は、前の年に新盆の家で寺に納めた提灯で、前後に2張りずつ4張りが用意された。年寄りは盆綱のことを「ワッショボンボン」といっている。昔の盆綱は10m位あり、参加者も20人位いた。

根木名は、江戸時代に継立場という交通の中継ぎをする場所であり、東方に行くと銚子、西方には佐倉、北方には成田が隣接し、それぞれの分岐点であった。このため道の辻には、明治元年に発令された「五箇条の御誓文」と言われる「五傍の掲示」が高札場に掲げられた。今、この高札は6枚が現存しており、富里市の指定文化財として、富里市立図書館に展示されている。

寛永5年 (1628)の「根木名田畑検地反別帳」の記録によれば、この年の根木名の石高は232余りとあり、前年の寛永4年の記録である「寛文印知集」に記載された久能(203石)、大和(156石)の石高と比較して、久能と同規模のムラであった事がわかる。また、延享3年(1746)及び 天明8年(1788)には、諸国巡見使の交通に伴い人馬割を助郷諸村に通達しており、天保9年(1838)の巡見使の交通に伴っては、成田村新勝寺から火鉢、煙草盆などを借用、その通過に伴う人馬の惣遣い方を佐倉藩役所に提出している。

この頃の家数は32軒で人数は169人と記されており、根木名は佐倉から外房方面を結ぶ脇往還の継場で巡見の時は根木名を経由するため28ヶ村の助郷・代助郷村があり、弘化3年(1846)に、人馬の提供を助郷村に求めて、騒動が起きた記録も残っている。

根木名には、前川、浅間台、和免、塚田、宮前、猪ノ穴、植上、広田谷津、広田、台芝、作畑、野辺作、中野、松作、笠木、細田、西谷津、笠木山という地名がある。

根木名の盆綱

 

新橋(にっぱし)のお話

新橋の概要

新橋のほぼ中央に鹿島川の上流である高崎川が流れている。その左右には水田が広がり東は中沢地区、西側は酒々井町の尾上地区に隣接している。水田の北側には三つの谷津があり、その谷津は七栄地区に侵入し、最も東側に侵入している谷津は深く樹枝状の地形を示している。

新橋という地名は、平安時代末期久寿2年(1155)の「印東庄郷司村司交名」という文書に、「新橋朝原清里」という地名を付けた荘官と思える人物が記載されている。新橋は観音堂が在る方に集落があったことが、享保16年(1731)の年貢割付状に、川向谷津という記載が見え、この川向谷津は高崎川の北側の谷津田を指していることから、古くムラの中心は観音堂のある台地に在ったことが窺える。観音堂には馬頭観音が安置されていると言われていたが、村史編纂事業の折に調査され聖観音が本尊であることが確認されている。境内には市内でも古い延享元年(1744)の馬頭観音石塔はじめ石仏の多くと珍しい下総式板碑がある。また観音堂では、1月18日に護摩法要が行われ、8月17日には花火が奉納されている。この花火の起源については不明であるが、字山ノ下に花火小屋があり、ムラの人により奉納花火が造られていたが、昭和12年頃に爆発事故で花火小屋は消滅、以後専門の花火屋を頼んで奉納花火が打ち上げられている。

観音堂の北側、高崎川を挟んで対岸には麻賀多神社があり、文政11年(1828)の創建と言われている。また、ここにある消防機庫の裏側には薬師像が安置されている。麻賀多神社西側には「薬師岳」、「寺沢」と言う地名が残されていることから、神社の周辺に在ったと伝えられている宝性院のものであった可能性が高いだろう。この他、伝承に纏わる地名としては「芳ヶ作」、「笠掛」がある。芳ヶ作はその昔、千葉介胤政がこの地にて弁当を食べる時、葦を折って箸とし、それを地面につき立てたところこの地に生える葦は2本ずつ生えるようになったと伝えられている。笠掛については、胤政が高台の松の枝に笠を掛けたことから名付けられ、その松を「笠掛けの松」と呼んだと伝えられている。

地形的な特徴が地名となったものとしては「駒詰」、「物見塚」がある。駒詰は江戸時代の捕込が近くにあった場所で、ここで捕らえられた野馬を詰めておいたところだと言われている。物見塚には大きな塚があり、その頂上には青面金剛の石塔が建てられている。

新橋は富里で最も多く字名がある地区で、水田や谷津に付けられた地名は新道、中新道、下新道、堀尻、三股、上横谷津、下横谷津、姥田坂下、姥田、宮ノ先、上寺沢、中寺沢、下寺沢、寺沢、上杣田、下杣田、五斗蒔、長町、猪ノ尻、水白、曽利町、高崎等があり、川の北側には、大作、芦台、宿ノ辺田、中ノ台、中ノ莖、外山、宮ノ台、宮ノ下、登台、郷辺田、薬師岳、寺沢台、杣田台、西ノ下、瓜房、駒詰、高松、中ノ口があり、川の南側には、台畑、東長作、天上海道、堀ノ内、茶ノ木、笠掛、芳ヶ作、宇津茂、顔目笠掛、町山台、長塚、長作、山ノ下、屋敷前、地内台、宮塚、物見塚、嘉込がある。

新橋観音堂遠景新橋観音堂近景

 

中沢(なかざわ)・新中沢(しんなかざわ)のお話

中沢・新中沢の概要

平安時代末期の久寿2年(1155)に記された「印東庄郷司村司交名」という古文書には、荘官と考えられる「中沢苅田弘益」という人物の名が記されており、平安時代末期には「中沢」という地名が使用されていたと考えられる。中沢は南北に長い地区で、そのほぼ中央には国道409号線が通っている。そして河川は新橋から中沢の小作に侵入して直進し、立沢に至る谷津と北側七栄方面に遡る谷津、南側に遡り高松に至る谷津がある。

このため小作地区では高崎川は北東南から流れて来て、川が合流し、十文字の形となることから「日本の中で田んぼが十字になるのは、中沢のここ小作と高天原だけだと」言っていた人がいた。その交差する水田のほぼ中央に弁天様が祀られていた。川が交差し十文字になったそれぞれの台地には塚が在る。このため古くからこの場所は「四ッ又、四ッ塚弁天」と呼ばれていた。また中沢には室町時代に築かれた中世城址があり、通称「ジョウヤマ」と中沢の人は呼んでいる。この城は千葉氏に関係する山城で、千葉氏の山城に付随する1寺と1社があり、1社は妙見神社で、1寺は現在無いが、妙見神社の下に見性院があったと伝えられている。山城は、土塁、空堀、腰曲輪、虎口、物見塚等が残っている。そして当時警備の役割をしたであろう、熊笹が城山の南斜面に自生している。

寺に関しては、この他に文禄三年(1594)の検地帳(写)には、見正院、昌福寺、正福寺、庄蔵院、正蔵院、名正院、成福院、長福院、常福院、併福院、正福院、成正院、正蔵院の寺が所有する水田が記載されている。また享保二十一年(1736)の中沢名寄帳には、常福院、自性院の二寺が見える。

中沢は中沢、新中沢、中沢新田と大きく区分され、次のような字名がある。中沢単独の地名としては古作、加良、小作、野馬木戸、松原、升堀、牧野、南山、高野台があり、新中沢と中沢で重なる地名は賀良、後田、大清水、仙上、花輪台、滝台、滝下、矢崎、塚越、出戸、狐谷津、谷津台、木戸、南台、梅田台、原、以后田、広畑、向台、狐下、町田、川中郷、川津場、高野橋、棒辺田、南、高松下、兎谷津、梨の木、唐川、大下、古唐川である。また、新中沢単独の地名としては南新田、唐川台、横谷津台がある。

中沢区内には新中沢という地区がモザイク状に存在するが、新中沢は中沢区の中に包括されており、字向台の中には中沢と新中沢が存在している。なぜこのような事態が生じているのか『中沢見聞録』や聞き取りによると、中沢城址に関係するのか、原、菅沼、林田が早くから中沢に居住していて、林田家が所有していた土地が新中沢と呼ばれるようになったと言う説があるが詳細については不明である。また『中沢見聞録』によると千葉氏の時代にお福という女性がいて、権力があって自分の気に入った人々だけを分け取ったのが、新中沢であるとなっている。字名と中沢、新中沢の関係を考えてみると字名が先にあって、新中沢が後で成立したことになる。

中沢新田は4軒から始まったといわれている。その4軒はイッサー、イチロベエ、ヤネヤ、サンゼムで、イッサーには天明期の位牌があるのでそれ以前に既に居住していたことになる。

雪の中沢城祉

 

立沢(たつざわ)・立沢新田(たつざわしんでん)のお話

立沢・立沢新田の概要

立沢は、市役所の南に位置し、高崎川の本流が北端部を東から西へ貫き、支流のひとつが南から北へと流れている。立沢の小字は、鶴巻、稲荷谷津、向山(ムコウヤマ)、向畑(ムコウバタ)、水神後(スイジンゴ)、イノ前野、ロノ前野、ハノ前野、ニノ前野、ホノ前野、上谷津、トノ前野、チノ前野、リノ前野、行人田(ギョウニンダ)、八ツ堀、居下(イシタ)、台畑、天神前、天神谷津、原畑、地蔵谷津、愛宕台、後谷津、広田(ヒロダ)、新田下がある。立沢には中世城館跡である立沢城址があり、土塁や空堀の一部が残っている。このことから、中世頃までにはムラとして成立していたと考えられる。

立沢新田は、立沢村の切添新田として、佐倉七牧の内野牧と高野牧の一部を開発したことによって成立した。明治になってから多くの新田開発地が行政的に本村に吸収されたが、同時期の新田開発地と比べると面積が大きかったことなどから、独立したムラとして今日に至っていると考えられる。立沢新田の小字は、留塚(トメヅカ)、愛宕台、宮沢、谷ツ台、北太木(キタタイキ)、西太木、向太木(ムコウタイキ)、中太木、南太木、東太木がある。

 

高野(こうや)のお話

高野の概要

高野は、高崎川源流のひとつにあたる河川の最上流部に位置する地区である。このことから台地上の畑地と谷津の水田との比高差はあまりない。また、「巳ノ口(ミノクチ)」に由来するのか、蛇にまつわる伝説がいくつか残されている。

現在使用されている高野の中での地名(通称)は、聖徳寺の周辺を「郷(ゴウ)」と呼んでおり、八街へと向かう主要道路(県道)の周辺を「新田」と呼ぶ。そして高野内の小字には、出戸(デド)、満々田(ママダ)、埜森(ヤモリ)、弥五山(ヤゴヤマ)、小金津(コガネヅ)、高田、牛蒡田(ゴボウダ)、下辺台(シモベダイ)、中畑(ナカバタ)、下辺、猫造、新田下、新田台、流谷(ナガレヤ)、杉ノ木、巳ノ口、広戸、古屋敷、茂神台(モガミダイ)、榎ノ戸(エノキノト)、稲持、戸山(トヤマ)、道祖谷、川間(カワマ)、宮ノ谷(ミヤノヤ)、太木(タイキ)がある。

近世(江戸時代)の高野は、古文書などから佐倉藩領であることがわかっており、また佐倉七牧のひとつである「高野牧」の野付村であったことから、牧に関する賦役が課せられていた。なお、高野の新田開発は、享保16年(1731)の「下総国印旛郡高野新田検地帳」に宮根・茂神台の2箇所を開発していることが記されているが、現在は宮根という字名は残っていない。

高野には、慈教山聖徳寺、白幡神社(2社)が現存するものの、住職や神主はいない。いずれも開基はわかっていないが、江戸時代の前期には成立していたものと考えられている。また、火災により廃寺となった聖徳寺跡の堂には、聖徳太子の十六歳時の姿を現した「孝養像」が難を逃れて祀られている。

聖徳太子孝養像