印旛沼 について知っていることをぜひ教えてください
冬の成田空港から離陸するとき、左の窓の席に座ると印旛沼が見える。飛行機は向かい風に離着陸をするそうだ。北へ向かった飛行機の窓に、午後なら、印旛沼の湖面が陽光の反射で金色に輝く。
高崎川
富里市内を源として印旛沼に流れ込む河川は高崎川と江川がある。富里音頭の歌詞には「山という山はなけれど、また川という川もなけれど・・・、」とあるが、高崎川は印旛沼へ流入する水源としての役割を古くから果たしてきた河川の一つである。高崎川流域には平安時代頃から人々が暮らした足跡が多数残されており、古代から近世にかけて陸路の他にも水路による人と物の移動した道が存在したことを物語っている。
江戸時代の沼となった
印旛沼は江戸時代の初めまで、香取海といわれた、現在の霞ヶ浦などを含む広大な内海の一部でだった。香取海は江戸を洪水から守るために行われた流路転換に よって、利根川は東京湾から銚子に流れを変えた。そのために土砂によって香取海は浅くなり、水田のつくられる水郷となっていったという。印旛沼は埋まるこ となく、淡水湖としてのこり、高度成長期の前は、沼水浴のできる美しい湖沼だったといいます。一時、生活排水などで富栄養化がすすんだものの、現在では水質 の改善が進んでいる。また、地元漁師さんの話によるとブラックバスなどの外来魚が放流されて問題となった時期があったものの、現在では外来魚が全滅し、本来の姿に近い状態を保っているとのことである。
水利の要衝
富里市は市内の水道の水の一部をこの印旛沼の水で得ている。水害対策を含め、水量の調整で、利根川から水を取り込んだり、東京湾にも水路を確保したり、その機能は重要視されている。利根川の水門が開いたとき、川鵜などの水鳥が小魚を狙うためにあつまるので、遠くからでもそのことがわかる印になるという。
印旛沼龍神伝説(千葉県栄町役場発行パンフレットより)
天平三年(七三一)年、その夏はことのほか暑く、水不足となった。時の聖武天皇の命により、龍閣寺の釈命(しゃくみょう)上人が雨乞い祈祷を行うと、印旛沼の主の小竜が、大竜に殺されることを承知でその願いを聞き入れ、七日七晩、雨を降らせてくれた。雨が上がった後、沼のほとり3ヶ所で、分断された竜の死体が見つかり、上人は竜との約束どおり、頭を龍閣寺に葬り、寺の名を龍角寺と改めた。また腹部は現在の本埜村に、尾は八日市場市にある寺に手厚く葬られ、それぞれ龍腹寺、龍尾寺と名付けられたと伝えられている。
印旛沼と龍
印旛沼