富里市初の国登録有形文化財である「旧岩﨑家末廣別邸」。

ここでは、その主であった旧三菱財閥第三代総帥 岩﨑久彌について、お話をして行きたいと思います。

久彌の生い立ちから社長退任まで

久彌は慶應元年(1865)8月25日、土佐国安芸井ノ口村(現高知県安芸市)で、三菱の創業者である岩﨑彌太郎とその妻 喜勢の長男として誕生しました。久彌は慶應義塾、三菱商業学校に学んだ後、父彌太郎が病没した翌明治19年(1886)に叔父彌之助の勧めで米国ペンシルベニア大学(今年、久彌の卒業論文が大学に保管されていることがわかりました)に留学、財政学などを学びます。

同年、彌太郎の志を継いだ彌之助は海運業から撤退という英断を下し、新たに「三菱社」を創立。工業や造船など、海上から陸上への事業に転換を行います。また、明治24年(1891)には、鉄道庁長官 井上勝、日本鉄道会社副社長 小野義眞と共に「小岩井農場」を開場、同26年には商法の施行に際して会社を改組し、「三菱合資会社」を設立、同時に甥である久彌に社長の座を譲ります。

その後久彌は、23年間にわたって三菱社の経営を主宰して新たに神戸に製紙会社を設立するなど社業を拡充し、鉱業、銀行、造船、商事、地所などの諸事業でも大躍進を果たしました。久彌は聞き上手な性格であり、信頼できる人物であるとみると事業の方向性を確認し、各論は任せたといいます。また、久彌が社長を務めた期間、国内では殖産興業、産業革命、重工業形成が重なった時期でもあり、時代の追い風に乗って、叔父彌之助によって築かれた事業の近代化と新たな事業を興して三菱の多角経営化に努めたのでした。

大正5年(1916)、久彌は従兄弟である岩﨑小彌太に社長の座を譲り、若い頃からの夢であった農牧事業へと邁進して行くのです。

幼少時代、留学時代のエピソードについてはまた次の機会に・・・。

三菱社社長岩﨑彌之助と副社長の久彌(岩﨑久彌傳より転載)

久彌幼少期のエピソード

明治 7/18748歳)

父彌太郎は大阪の三菱社で躍進、東京に進出を図ります。その時、家族も移ることになり、陸路東海道を行くことになりました。川船や馬、人力車などを使いながらも基本は徒歩で、ようやく12日目に東京入りします。このとき久彌は泣き言も言わずに大人について歩き、それを見た祖母の美和は「この孫はものになる」と思ったと伝えられています。三菱の経営理念を表す「三網領」。その基となったのが岩﨑家のゴットマザーともいわれる美和の残した言葉であり、その美和の教えを最も良く引き継いだのが久彌だと言われています。

 

久彌青年期のエピソード

明治19年/1886(20歳)

この年、久彌は渡米。直前には福沢諭吉に会ってアドバイスを受けました。久彌はフィラデルフィアの安下宿に生活し、1年半の準備期間を経た後、ペンシルバニア大学ウォートン・スクールに入学することになります。ウォートンの学生は全部で30名程度で日本人は久彌一人でした。3年次にはアダム・スミスの国富論・政治経済学・米国産業史・合衆国憲法・米国政治経済史・論理学など11科目の単位を取得、4年次には合衆国行政学・商法・ミルの経済学・会計学・人口統計論・財政学など9科目の単位を取得し、明治24(1891)年、25歳で卒業しました。この頃、フィラデルフィアには松方正義の四男正雄、寺島宗則の長男誠一郎、トーマス・グラバーの長男倉場富三郎、串田万蔵らが留学しており、三菱商業学校で教師をしていた馬場辰猪も含まれていました。馬場は日本文化を紹介したり、日本の政治を批判したりしていましたが、39歳の若さで客死。久彌は葬儀を取り仕切り、墓碑を建立しています。

久彌は5年間の米国生活で多くの学んだとされます。この頃の米国は、様々な産業が勃興し、鉄鋼王カーネーギーや石油王ロックフェラー、金融王モルガンを輩出しています。当時のフィラデルフィアは人口100万人を超え、デラウェア川沿いに港湾施設が並び、鉄鋼、鉄道車両、工作機械、繊維などの諸工業が栄え、ペンシルベニア鉄道など鉄道建設が盛んな時でもありました。久彌は、祖国日本で叔父彌之助が率い、やがて自分が率いることになる三菱の遠大な目標をこの地で得たと言えるでしょう。

また久彌は専門的な知識を修得する一方で、日本の生活では考えられない自由な時間を得て読書し、思索し、議論しました。フィラデルフィアの上流階級の子弟、大学の教授、プロテスタントの牧師など様々な人々との交流を通じて、久彌は社会的な地位にある者のあるべき姿というものを学んだのです。この学びが後の三菱という巨大企業の運営にいかんなく発揮されることになります。

フィラデルフィアの下宿外観(岩﨑久彌伝より転載)      下宿内部(岩﨑久彌伝より転載)      他の留学生との記念写真(岩﨑久彌伝より転載)

 

明治21/188822歳)

ペンシルヴァニア大学ウォートン・スクールに入学。財政学などを学ぶ(本年、久彌の卒業論文がペンシルヴァニア大で発見された)。美和が書き残した訓戒に、「富貴になりたりといえども貧しきときの心を失うべからず」との1行があります。原点を忘れるなという、彌太郎らに向けた岩﨑4代の心の底にある戒めでした。久彌は彌之助の後を継ぎ成長期の一大企業集団を統率しましたが、若いころから決して奢らず、他者への配慮を忘れない経営者だったのです。

 明治24/189126歳)

ペンシルヴァニア大学ウォートン・スクールを卒業、帰国後三菱社の副社長に就任。明治期の大富豪の御曹司とはいえ、学生生活は質素倹約を旨としていた久彌を、同級生たちは日本から来た貧しい学生として見ていたに違いありません。後に外交官になり駐日公使も務めたロイド・カーペンター・グリスコムとは特に交友を深め、卒業にあたって一緒に欧州を旅行。大西洋航路では、当然のようにグリスコムは上等船室、久彌は船底の下等船室でした。旅も終わりに近づき、久彌はペテルベルグの毛皮店で日本へのお土産を求めましたが、久彌が高価な毛皮を大量に発注するのを目にしたグリスコムは心底から仰天し、後に「カーネギーとロックフェラーを併せたような偉大な地位につく男とは、その時までこれっぽっちも思わなかった」と述懐しています。三菱の社長や退任後、時に大胆な行動に出て周囲を圧倒したという久彌。その片鱗は幼少から青年期においても顔を覗かせているのです。

                                                                                                   【引用・参考文献】

                                                                                                   『岩崎久彌傳』 岩崎家伝記刊行会 編

                                                                                                   『岩崎久彌小伝』 (公財)三菱経済研究所 三菱史料館 編