明治屋と岩崎家 について知っていることをぜひ教えてください

明治屋沿革より

明治・大正期の明治屋

1885(明治18年)創業者磯野計、横浜万代町で船舶納入業開始。(明治屋創業)
1888(明治21年)ジャパン・ブルワリーの銘柄、キリンビール総代理店になる。
1903(明治36年)合名会社 明治屋設立。米井源治郎 二代目社長に就任。
1907(明治40年)米井源治郎、磯野長藏 他8名、発起人となり麒麟麦酒株式会社設立。
1908(明治41年)PR誌「嗜好」を創刊。
1911(明治44年)株式会社明治屋設立。 MYジャム発売。
1915(大正4年)特製「名譽月桂冠」一手販売契約締結。     
1919(大正8年)磯野長藏副社長 三代目社長に就任。

「岩崎久彌傳」などより

明治屋創業者の磯野計 いそのはかる 1858年9月(安政5年8)生 1897年(明治30年)12月14日没

現在の岡山県で津山藩士の家に生まれ、10歳のとき(明治元年)から繰り返し英学、英語を学び、東京帝国大学の法学部を卒業し、現在でいう弁護士として開業するも、当時訴訟文化は総称でふるわず。岩崎彌太郎の支援をうけて、郵便汽船三菱会社の給費留学生としてロンドンに留学し、「回船仲立業」を営む会社で学ぶ。帰国後神戸の三菱の支社で働くが、1885(明治18年)に日本郵船会社の設立に伴い、三菱の海運事業は収束。計は独立し明治屋を創業。本郵船の湿布チャンドラーとして、船の運航に必要な物資納品していた。

1888(明治21年)明治屋は岩崎彌之助のはからいで、彌之助や澁澤栄一、大倉喜八郎などが出資したジャパン・ブルワリーの銘柄、キリンビール総代理店となり、一気に業績を伸ばす。39歳で亡くなってしまった計の家族を後見したのは計の親戚で、明治屋二代目社長となる米井源治郎。

 

麒麟麦酒の設立

1907(明治40年)米井源治郎、磯野長藏 他8名、発起人となり麒麟麦酒株式会社設立。この前夜、1年前に、源治郎は、清国に視察に向かう岩崎久彌を追いかけ、船上で、麒麟麦酒の設立を懇請し、それがかなう。日本ビール、札幌ビール、大阪ビールが合併をして、小規模のビール会社は圧倒されはじめ、外国人が経営していたジャパン・ブルワリーも、外国人会社として日本で戦うことの限界を覚え、会社譲渡の方向で動き出していた。源治郎は久彌にジャパン・ブルワリーを買収し、新会社を設立する計画を示し、出資と後援を依頼した。久彌はこれを快諾した上で、三菱と日本郵船からも源治郎の援助を行う。

源治郎が育てた磯野の養子、長藏は、昭和初期の金融恐慌後の激烈な販売戦のあと、大日本麦酒と日本麦酒鉱泉の二社からそれぞれに合併を迫ったときに、久彌に合併はしないと言い切っている。久彌は長藏を呼び、彼の話を聞いた上で、合併を選ばす、三社で不必要な過当競争をしない調整を行っている。


「岩崎久彌傳」では、明治屋のキリンビール一手販売権を取止める問題が出た時、久彌は「それでは米井源治郎の仕事がなくなるではないか」といって退けたという、久彌と源治郎の友情が伝えられている。彌太郎、彌之助、久彌の三菱三代は、磯野計、米井源治郎、磯野長藏の明治屋三代をとても大切に支援している様子がわかる。