早稲田大学校歌のトリビア (4)「早稲田の森」の謎 について知っていることをぜひ教えてください

facebook稲門クラブの鈴木克己さんの2021/07/17の投稿を許可をいただいて転載させていただきます。(転載する場合ご連絡ください。)


「早稲田大学百年史」で校歌が生まれた経緯と歌詞の典拠について執筆したのは、明治文学史の研究で知られ校歌についての著作も書かれている木村毅先生(1894-1979)であろうと言われています。「久遠」は仏教用語だが島村抱月の講義でしばしば言及されていたとか、「聳ゆる甍」は日露戦争期の小学唱歌「いらかは雲に聳えたり」に関連するのではないか、等々、興味深い点を指摘されているのですが、「早稲田の森」については直接インスパイアされたものはなく、学園を緑に見立てたのだろうとあっさりまとめておいでです。

文中、「学の独立」は本来「学問の独立」としたかったのを字余りで削らざるを得なかったのだろう、とありますが、「百年史」では、校歌の5年前に坪内逍遥が早稲田初のカレッジ・ソングとして作詞した「煌々五千の炬火は」の1番に「東洋君子の国に真個の学徒あり/学の独立を屹然標榜し」とあるのが見落とされたようです。この作品は永井建子(ながいけんし)の軍歌「元寇」の旋律を借用した替え歌ということもあり、評価されなかったのかもしれませんが、「城西の空」といった下りとともに校歌の歌詞に影響を与えた可能性もなきにしもあらずと言ってよいでしょう。

「百年史」が触れていない重要な資料が米イエール大学の学生歌「Old Yale」です。この曲の存在は、1960年代には既に知られていて、実際に先方に問い合わせたら「現在では歌われていない」との返事が来て、その後特に問題視されることもなかったものの、当時としてはそれ以上調べようもなかったのでしょう。

2007年の校歌誕生百年を機に、校歌研究会でシンポジウムを開いたり、大学史資料センターが会津八一記念館で資料の展示を行ったりしたのですが、その際、「Old Yale」の英文の歌詞を御風は読んで、影響を受けたのかどうかが話題になって、私は1906年に英文科を卒業している御風のことだから、日本では先例の乏しいカレッジ・ソングを作歌するにあたって、どのようなことを盛り込めば良いのか参考にしたことは当然考えられると具体例を挙げて報告しました。

1.歌詞の中で「一千年の時、過ぐるとも、母校は旺盛な緑木のごとく今なお盛んなり」「かつて、果敢なる我らが父祖が、この丘と森の地に至りしいにしえの日々」「かつて青二才の如くそびえ今やかほどに元気旺盛な森の中に立ちしは、幾代を経て、国の誇り、自由の守り手たるイエール」といった描写は、学園を木立や森にたとえた比喩であり、「早稲田の森に聳ゆる」「常盤の森」の典拠は、これではないか。

2.「かつて、果敢なる我らが父祖が…祭壇に灯したる高き望みは、清く聖なる炎として輝きたり」は、建学の思想や精神を炎や光になぞらえた表現であり、「かがやくわれら」「理想の影」「輝きしかん」「理想の光」に結実したのではないか。

3.「激しく、疾風に乗って響き渡る「イエール」の応酬。その厳しさ、ときの声のごとし」「共に巻き起こる賞賛の歌声は、山谷より響き来る」と母校とその名を賞賛する歌声が到るところで怒濤のように響くという描写が、「いざ声そろへて空もとどろにわれらが母校の名をばたたへん」につながったと考えられないか。

たまたま描写や記述が一致しただけだと決めつけてしまうのは無理があると思いました。

御風自身も、校歌ができた20年後の回想の中で、「東儀さんと打合せをしましたところ東儀さんのところに英米その他の国の大学の校歌を学校で取り寄せたのが来て居ましたので、先づ取り敢へず、それを片端から読ませて貰つたりしました」と記している以上、「Old Yale」に限らず、参考にしたカレッジ・ソングの歌詞があったことは事実でしょう。

この話を研究会でしたときは、旋律ばかりか歌詞まで似ているのに顔を曇らせ、あまり表沙汰にしない方がよい、とタブー視する参加者もいたのですが、そもそもどんな文芸作品でも無から有を生み出すものではなく、先行する諸作品の様々な要素を換骨奪胎して取り入れて成立するものです。外国の作品を参考にしたことを恥ずかしがったり隠したりする必要はないでしょう。

「Old Yale」の作詞者も卒業生だったことが判明していますが、早稲田大学校歌の3番もこれを受けて、学生や学苑の「現在進行形」を歌うものではなく、明らかに早稲田を巣立った卒業生の母校への心情を話題にしており、これを現役生が歌うわけですから当時としても画期的だったはずです。

興味深いことに、校歌の歌詞で「Old Yale」の要素が反映しているらしき箇所は、1~2番の後半、3番の全体に渡っており、これはいったん作詞したあとでこれでは短い、もう少しほしいといった理由から追加の歌詞を「増築」した痕跡ではないかと私は見ています。ご意見・ご感想を頂ければ幸いです。

 

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