早稲田大学校歌のトリビア (5)都の西北と軍艦マーチ について知っていることをぜひ教えてください

facebook稲門クラブの鈴木克己さんの2021/07/25の投稿を許可をいただいて転載させていただきます。(転載する場合ご連絡ください。)


東儀鉄笛が校歌を作曲するにあたり参考にしたと推定される米イェール大学の学生歌「Old Yale」は、1837年にイギリスの作曲家エドワード・ジェームズ・ローダーが作曲した「The brave old oak」の旋律にJ. K. ロンバードという1854年に同大学を卒業した校友が歌詞を付けたものでした。

オリジナルの曲は、前奏8小節(出版譜ごとに異なる箇所が見られる)と後奏4小節、歌の部分は8小節+8小節+8小節とABCの三部構成になっています。ところが、鉄笛はこれをそのまま引き継ぐのではなく、旋律はもとより曲の構成まで大きく手を加えているのが注目されます。

1.Aの歌い出しは、音程の流れは同じだが、付点8分音符+16分音符を含むスキップするような軽快な旋律を改め、4分音符を6回連打する勇壮な曲調に書き直している。

2.Bの中間部は元の8小節をすべて取り払い、新たに倍の16小節の旋律に膨らませている。

3.Cで「早稲田、早稲田…」を連想させる冒頭の旋律は2回繰り返され、ペーソスを含んだセンチメンタルな終わり方をしているのを、1回だけ、それもAに呼応した勇ましい曲想に変えている。

ただの「下手マネ」ならみっともないところですが、「Old Yale」も元歌の「The brave old oak」も欧米ではほとんど忘れ去られたのに比べたら、改作とはいえ、鉄笛の創作力にはオリジナルを凌駕するものが感じられます。

普段は考えもしないで歌っているだけですが、Cを約半分の簡潔な旋律に直す一方で、Bの中間部を異様に長く設定した狙いはどこにあったのか。歌詞がそういう長さだからそうなったのだろう、と言ってしまえばそれまでですが、曲調の変化で区切ってみると「我らが日頃の…」から「行手を見よや」をひとつのまとまりと考えるのには無理があるのではないでしょうか。むしろ、「ソドドドドシラソ(都の西北)」に「ミファソミソラシド(我らが日頃の)」は続いており、「ドドドドレドドソ(輝く我らが)」から別の局面に入り、「ミファソラシド(早稲田、早稲田)」でフィナーレを迎えるという捉え方の方が説明が付くようです。

となると、歌い出しが異様に長くて、突然短いエピソードが乱入し、簡潔な締め括りで終わるという構造はオリジナルの三部構成とは全く異なっていることが分かります。

鉄笛がどこまで意識していたかは不明ですが、これには日本の伝統的な芸能の考え方や構成である「序破急」が反映されているのではないでしょうか。

歌舞伎舞踊の「京鹿子娘道成寺」が分かりやすい例かと思いますが、再建された鐘の供養に舞を踊らせてくれと白拍子が踊り出して、これがず~ッと続いて、突然、落ちた鐘の中に姿を消して、法力で引き上げたら蛇体が現れ、花道にさしかかろうとするときに奥から猛々しい押戻が現れ、にらみ合ったまま幕となります。

事情を知らない欧米人が鑑賞すると「なぜあのサムライとモンスターは死闘を繰り広げないのか?」と物足りないような顔をするのではないでしょうか。ベートーヴェンの交響曲でもハリウッド映画でも、あちらのエンターテイメントはフィナーレに重きを置く考え方が主流である一方、日本の場合は話の発端が長くて、いったん変事が露呈すると、おしまいは長々やらずにさっさと結末に到るものです。

早稲田大学校歌も、8小節の前奏のあと、「都の西北…」「聳ゆる甍は…」と似た旋律を2回繰り返し、同様に「我らが日頃の…」「進取の精神…」と続き、「現世を忘れぬ…」とまた同じ節が続くのかと思いきや、いきなり高い音程で「輝く我らが…」と乱打されてビックリ、すぐに締め括りとおぼしき「早稲田、早稲田…」の連呼で終わります。

つまり、「都の西北…」から「久遠の理想」までが序で、「輝く我らが…」が破、「早稲田、早稲田…」が急というわけです。

作曲者の東儀鉄笛は、篳篥を家業とする家の出身ですが、西洋音楽にも詳しく(お孫さんの話によると、東儀家には鍵盤が象牙でつくられたピアノがあったそうです)、さらに日本の音楽史全般に通じて論文を何本も書いていますから、「序破急」の美意識は自然と身に付いていたのでしょう。

ちなみに、こういった構造で作品をまとめるのは鉄笛のオリジナルではなく、明治の日本人がこしらえた作品ではポピュラーなやり方だったようで、有名どころでは瀬戸口藤吉の「軍艦行進曲」(作詞:鳥山啓)で歌になっているABAのAが序破急になっています。4小節の前奏に続いて「守るも攻めるも黒鉄(くろがね)の」「浮べる城ぞ頼みなる」「浮べるその城日の本の」と似た旋律が3回提示されたあとで(序)、高い音程から「皇国(みくに)の四方(よも)を守るべし」と破が入って、あとは「真鉄(まがね)のその艦(ふね)日の本に…」と締め括りの急でまとめるわけです。

音楽メディアがほとんどなかった明治時代の大半の日本人はドレミファソラシドを正確に歌えなかったと言われています。特に「ミファ」と「シド」の半音が取りづらかったため、ファとシのない旋律が明治の歌には多いそうですが(いわゆる「ヨナ抜き音階」)、鉄笛は近代的な西洋音楽に即して1オクターヴの音をすべて使った上で印象的な作品に仕上げました。「和魂洋才」がなしえた技とも言えましょう。

 

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