早稲田大学校歌のトリビア (6)なぜ・どのように有名になったか について知っていることをぜひ教えてください

facebook稲門クラブの鈴木克己さんの2021/07/31の投稿を許可をいただいて転載させていただきます。(転載する場合ご連絡ください。)


「曲がよいから」「卒業生が多いから」「グリークラブが歌い広めたから」……漠然としたイメージで語られることが多いようですが、資料などで検証してみると、いつからいつまでの間に誰々が何をしたから一挙に世に知られるようになった…といった類の話ではなかったらしいことが浮かび上がってきます。

しばらく前に六代目春風亭柳橋の新作落語「掛取り早慶戦」のSP音源(1933年)を紹介したことがあります。「みそかのさいそく、だめだよかねは/とりくるいくらか、われらはしらぬ/われらがひごろのびんぼうしるや/しんしょうのくしん、あくせくすれど/どうせこのよじゃ、はらわぬつもり/かかあとわれらがよにげをみよや/だめだ、だめだ、…」という校歌のパロディに東京中の寄席で客が腹をよじって笑い転げたそうですから、昭和の初め頃には早稲田の校歌は歌詞ごとよく知られていたことがうかがえます。

一般に大学野球の興隆とともに歌詞が知られるようになったと見て間違いはありませんが、他にも、早慶戦の前などに学生たちが太鼓を叩いて街頭を練り歩いたり、数年おきに行われていた名物の「提灯行列」などのデモンストレーションも一役買っていたことでしょう。

ただし、球場に出かけた人や1930年代に普及したラジオ放送だけで急激かつ全国的に認知されたという見方には時系列的に無理があるかもしれません。

先に問題点を整理しておきます。

1.「校歌=歌」だから、歌詞とメロディーがセットとなって専ら声楽(歌手や合唱)が普及の担い手になったのだろうと漠然と考えがちだが、ブラスバンドその他の「器楽系」の役割が見落とされたり、過小評価されてはいないか。

2.早稲田の曲だから早稲田の関係者による演奏や宣伝だけで世に知られた、と断定するのは早計である。三木佑二郎さんが1965年に作曲した応援曲「コンバットマーチ」が早稲田のブランドとは関係なく日本中の吹奏楽部に広まったのが格好の例だが、最初は歌詞抜きで校歌の旋律が早稲田とは無関係のルートで流布した可能性も無視してはいけない。

3.早稲田大学グリークラブのように、現在でもその存在が知られている音楽サークルが昔からずっと校歌周知の最前線にいたと思い込んでしまうのも無理からぬ話だが、戦前・昭和前期までの早稲田の音楽シーンで一世を風靡した部活動の中には今ではその姿がすっかり忘れ去られたものがあり、それらも校歌の宣伝・普及に重要な役割を果たしていた事実を検証する必要がある。

前置きが長くなりましたが、実は、既に大正期に早稲田大学校歌は吹奏楽(ブラスバンド)のレパートリーとして全国で演奏されていた形跡があるのです。そのきっかけとなったのは陸軍軍楽隊でした。

一見すると早稲田とは無縁のように思われますが、現在早稲田のキャンパスに隣接する戸山公園と戸山ハイツは、かつてはその広大な敷地を旧陸軍省が所管しており、練兵場や兵舎、各種教育機関などの施設があり、陸軍軍楽隊の本拠地もここにありました。

早稲田で音楽活動が始まったころから戸山の軍人が楽器を教えに来たり、早稲田の学生(弦楽)と合同でベートーヴェンの交響曲を演奏した記録も残っているほか、1915年(大正4年)から本学で重要な行事や儀式で校歌その他の奏楽をやる際には陸軍軍楽隊に演奏してもらっていたそうです。実際、同年の高田早苗学長更迭式(第2次大隈重信内閣の文部大臣として転出することになった博士の壮行会)の記念写真には隊長の永井建子が写っていますし、いつの何の機会だったかは記されていないものの校歌を作詞した相馬御風は軍楽隊の伴奏で全校の学生たちが校歌を斉唱する様子を見て目頭が熱くなったと書き残していますから、戸山とは校歌の演奏その他で親密な関係にあったことは間違いありません。

(2)で、早稲田はもともと校歌を門外不出の秘曲にする気はなかったようだというエピソードを紹介しましたが、行進曲や軍歌など陸海軍の楽曲は、「哀の極(かなしみのきわみ)」(VIPの皇族の葬儀でのみ演奏された行進曲。先の大喪の礼でも流れた)のような例外を除いて、観閲式・観艦式など一般の人々の耳に触れると自然に市中にも流布し、歌われ、演奏されて行きました。

大正時代になると楽器をたしなむ一般の人も増えて、アマチュアによる吹奏楽団が各地に誕生し、遊興地や百貨店に少年音楽隊が組織されるなど、ブラスバンドはポピュラーな存在になって行きます。

演奏家や指導者の中には軍楽隊の出身者もいたでしょうから、レパートリーの中に軍歌などと並んで早稲田大学校歌も平明で聴き心地の良いマーチとして各地に広まっていったことは怪しむべきことでもありません。

これに続いて、大正期はまだ蓄音機やラジオ放送、トーキー映画がほとんど普及しておらず、メディアとしては数人の楽師が商品・興行の宣伝目的で街頭を練り歩く「ジンタ」と呼ばれる小規模の楽隊が音楽を聴かせる重要な存在でした(「おちょやん」にも出てきますが、道頓堀みたいな大都市だけではなく、地方の中小の都市でも見られたそうです)。

チンドン屋もどきが早稲田の校歌を演奏していたのかとがっかりされる方もおられるかもしれませんが、オペラやクラシックとは縁の無い大正の庶民がビゼーの歌劇「カルメン」第1幕の前奏曲やオッフェンバックの喜歌劇「天国と地獄」序曲のメロディーを知っていたのは、こうした大小の楽隊の存在によってであり、早稲田の校歌も出自由来も分からぬまま人々の耳に残っていったようです。

もちろん校友が「あれはうちの校歌だよ」とコメントして歌ってみせたり、野球中継やスタジオでの生演奏(開局後けっこう早い時期に早稲田音楽会は出演している)で流れてくる歌を耳にして「ああ、あれがそうか」と気が付く人もいたでしょう。

校歌が世に知られる直接のきっかけとはならなかったものの、その知名度を維持・発展させるブースターの役割を担ったのが早稲田音楽会(早稲オケ、マンドリン楽部、グリークラブの前身)、ついでハーモニカ・ソサイアティでした。

朝ドラ「エール」にもハーモニカ・オーケストラは出てきますが、往時の早稲田のハモソは数十名を数える大規模な楽団でコントラバスや各種打楽器、アコーディオンその他のリード楽器も編成に加わり、管弦楽や吹奏楽にも引けを取らない本格的な活動だったことが残された写真からうかがえます。

当時は早稲田の学生による楽団が地方を巡業するだけですごく儲かったらしく、早稲田の名を騙る偽物まで出没し、大学が「証明書」を発行して持たせたなんて変な話も伝わっていますが、大正から昭和初期にかけてのこうした器楽系の音楽活動も校歌の全国的な宣伝に大きく寄与したことは言うまでもありません。

早稲田音楽会から早稲田の戦前の軽音楽、ハーモニカ・ソサイアティと早稲田楽壇の中心人物だった前坂重太郎を「早稲田大学五十年史」は東儀鉄笛・相馬御風と並んで都の西北を世に知らしめた功労者だと記しています。

戦後はハーモニカが衰退して、現在は数人のバンド活動になったこともあり、往時の早稲田でハーモニカが校歌を広めた原動力であったことは今では知られていません。前坂の名も死後急速に忘れられて「早稲田大学百年史」ではほとんど言及されませんでしたが、2007年に校歌誕生百年を記念して会津八一記念館で大学史資料センターが主催した展覧会に前坂のコーナーも設けられ写真その他の資料により、あらためてその功績が紹介されました。

このように早稲田大学校歌が有名になるまでには様々な段階、ルート、担い手があったのです。

 

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