早稲田大学校歌のトリビア (14)19世紀・明治期の校歌・学生歌 について知っていることをぜひ教えてください
facebook稲門クラブの鈴木克己さんの2021/09/26の投稿を許可をいただいて転載させていただきます。(転載する場合ご連絡ください。)
本シリーズの締め括りとして米イェール大学の学生歌「Old Yale」と早稲田大学校歌の旋律に一部類似が見られることに対して私なりの見解をまとめてみたいと考えています。その前に、早稲田大学とは直接の関係はありませんが、一般的な予備知識として(現在の考え方とは異なり)明治期あるいはそれに先行する19世紀の欧米において、校歌や学生歌とはどのようなものだったのか、どのように生まれ、扱われていたのか、触れておきたいと思います。
「早稲田大学百年史」の中で、本学の校歌と並んで挙げられている「金剛石もみがかずば」という曲があります。明治8年(1875年)、東京女子師範学校(後のお茶の水女子大学)の開校式に当時の皇后陛下(昭憲皇太后)が臨席され、「磨かずば 玉も鏡もなにかせん 学びの道もかくこそありけれ」との御歌を賜りました。3年後の明治11年10月、この歌に宮内省楽師の東儀季煕(すえひろ)が曲を付けた「みがかずば」が正真正銘わが国初の校歌となりました。のちの文部省唱歌とは異なり、雅楽を思わせる間延びした鷹揚な歌いにくい旋律でした。
(ちなみに、大正2年に出た「尋常小学唱歌」の五年生用として、同じ詩に西洋風の曲を付け直した「金剛石もみがかずば」という同名異曲があり、東京女子師範学校でも元の曲に代えて、こちらを校歌としたことから、そうした経緯を知らずに、新しい尋常唱歌を「日本最初の校歌」として紹介してしまう間違いもあるようです。)
さて、日本の校歌第一号は作詞・作曲ともオリジナルであったものの、その後、唱歌とともに明治日本の教育現場で奨励された校歌は、歌詞こそ各々の地域・郷土の風物を盛り込んだ独自の詩歌が作られましたが、こと旋律については、新たに創作するのではなく、既存の楽曲からの転用・流用が大半だったのです。
その主な理由は、
一.しかるべき作曲家がいない
一.委嘱の費用を工面できない
一.歌唱指導が面倒・困難である
一.せっかく作っても、定着・普及するとは限らない
等々、各地の学校にとって負担・制約が大きかったからでしょう。
明治政府は大金を投じて「御雇外国人」を多数欧米から招聘し、中にはシャルル・ルルー(「扶桑歌」「抜刀隊」)やフランツ・エッケルト(「君が代」「哀の極」)など作曲にも長けた軍楽隊の指導者がいましたが、そんなえらい音楽家にその辺の小学校の校歌など頼めるはずもありません。また、西洋音楽の受容も明治を通じて少しずつ進んではいたものの、瀧廉太郎のような才能が登場するのは19世紀末のことで需要と供給のアンバランスは長く続かざるを得ませんでした。
筆者の居住地に隣接する某市の小学校の話ですが、10年ほど前に古い書類の中から明治時代に歌われていた校歌の歌詞が出てきて、なぜか楽譜はなく、地元の古老を尋ねて回ったら「祖母が口ずさんでいた」という人がいて、実際に歌ってもらったら文部省唱歌「橘中佐」(曲:岡野貞一)のメロディーだったと地元のタウン誌に報じられたことがありました。こうした「替え歌」型の校歌は明治の時代には全国各地に多く見られたことが最近の研究書でも明らかになっています。
当時は、作曲家が不在で費用の負担が大変だったのはもちろんのこと、新たに曲を作ったところで覚えさせること自体が大変ですから、よく知られた唱歌や軍歌のメロディーに乗せて歌わせる方がよほど楽だったことは言うまでもありません。
このほか、和歌山県下では複数(6校とも)の小学校それぞれが校歌に独自の歌詞をつけて、旋律は同じ曲を「使い回し」していたという例もあるそうです。
曲だけよそから持って来るのに抵抗がなかったのは、「鉄道唱歌」がよい例ですが、旋律よりもご当地ソングである歌詞のオリジナリティこそが重要であったからに他なりません(そもそも唱歌や校歌を歌わせる目的は、音楽を通して学童の情操教育を進める点にあったわけでは決してなく、郷土愛あふれ国家に忠良な国民意識の育成が念頭にあったからです)。
こうした制約は、欧米の大学におけるAlma mater(校歌)やcollege song(学生歌)にも共通していたようです。「Old Yale」が当時の流行り歌を元歌にしたことは以前紹介しましたが、他にも軍歌や「むすんでひらいて」のような童謡を引用するなど、ヴァリエーションも様々でした。もちろん、プリンストン大学の「Old Nassau」のようにオリジナルの作曲がされた例もありますが、この曲も元々は「替え歌」として歌われていたのを、(早稲田の東儀鉄笛みたいに)たまたま大学関係者にリヒャルト・ワーグナーに作曲を習った音楽家がいたので新たに曲だけ付け直してもらったとのこと。ちなみに関西学院ではこの曲をそのまま引き継いで英文の歌詞を差し替え、「関西学院校歌 Old Kwansei」として昭和の初め頃まで歌っていたそうです。このように、(Alma materとしては当局未公認のまま長く歌われているイエール大学の「The Bright College Years」が元歌の)同志社の学生歌と同様、「先輩格」の学校から歌をもらうという習慣は欧米や日本の大学では抵抗なく広く行われていたことが窺われます。
早稲田でも、校歌が生まれた5年後の明治45年、予科の(学生)歌を募集した際、入選4作のうち1作は提出された歌詞に一高の寮歌として知られていた「アムール川の流血や」の旋律で歌うように指示が付されていました(メーデーで歌われる「聞け万国の労働者」と同じ旋律)。残りの3作のうち2作には東儀鉄笛が曲を付けており、オリジナルの作曲と替え歌が学生歌の中で併存する時期もあったようです。
続いて、普及・定着という問題を考えてみますと、学校の指導が徹底して否応なしに歌わせる小中高とは異なり、特に自立自尊の意識が強い私学の場合、大学で校歌を定めても、学生らに受け入れられず結局ボツになる可能性も実際のところありました。例えば、早稲田と同じ明治40年に明治法律学校(現在の明治大学)ではオリジナルの歌詞と曲で校歌がつくられたものの普及せず、その後、イエール大学の学生歌を替え歌にしたがこれまた続かず、「白雲なびく駿河台」で知られる児玉花外・山田耕筰による校歌が生まれるのは大正9年(1920)のことです。
「慶應義塾塾歌」や「同志社大学歌」のように、大学当局の制定した校歌はさほど世に知られず、「都ぞ弥生」(北海道大学恵迪寮寮歌)や「若き血」みたいな学生歌の方が人口に膾炙してしまうのは、小中高の「お仕着せ」の校歌とは対称的で、いかにも学生が主体らしいカレッジ・ソングの有り様だと思いますが、だとすると、早稲田の校歌は大学発の存在ながら学生に受け入れられ、永きにわたり親しまれた例外中の例外だと痛感させられます。
なお、最後に特に指摘したいのですが、アムール川の流血や(1901)、嗚呼玉杯(1902)、紅萌ゆる丘の花(1904)、早稲田大学校歌(1907)、都ぞ弥生(1912)、明治大学校歌(1920)、若き血(1927)、紺碧の空(1931)、慶應義塾塾歌(1940)…と名の知れた寮歌、校歌、学生歌を列挙し、今の視点から眺めると、はるか昔のことゆえ遠近感がぼやけて、どれも同じような環境や条件の下で成立したかのような誤解を生んでしまうおそれがあります。学生歌で旋律の借用・流用が普通に行われていた明治期と、商業楽曲に運用されるような著作権の意識が校歌にも滲透していった昭和以降とでは、学生の「歌」一般に対する考え方に大きな変化があったのです。
早稲田大学校歌のトリビア (13)誤報と虚報 ≪早稲田大学校歌のトリビア (14)
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