早稲田大学校歌のトリビア (5)都の西北と軍艦マーチ について知っていることをぜひ教えてください facebook稲門クラブの鈴木克己さんの2021/07/25の投稿を許可をいただいて転載させていただきます。(転載する場合ご連絡ください。) 東儀鉄笛が校歌を作曲するにあたり参考にしたと推定される米イェール大学の学生歌「Old Yale」は、1837年にイギリスの作曲家エドワード・ジェームズ・ローダーが作曲した「The brave old oak」の旋律にJ. K. ロンバードという1854年に同大学を卒業した校友が歌詞を付けたものでした。 オリジナルの曲は、前奏8小節(出版譜ごとに異なる箇所が見られる)と後奏4小節、歌の部分は8小節+8小節+8小節とABCの三部構成になっています。ところが、鉄笛はこれをそのまま引き継ぐのではなく、旋律はもとより曲の構成まで大きく手を加えているのが注目されます。 1.Aの歌い出しは、音程の流れは同じだが、付点8分音符+16分音符を含むスキップするような軽快な旋律を改め、4分音符を6回連打する勇壮な曲調に書き直している。 2.Bの中間部は元の8小節をすべて取り払い、新たに倍の16小節の旋律に膨らませている。 3.Cで「早稲田、早稲田…」を連想させる冒頭の旋律は2回繰り返され、ペーソスを含んだセンチメンタルな終わり方をしているのを、1回だけ、それもAに呼応した勇ましい曲想に変えている。 ただの「下手マネ」ならみっともないところですが、「Old Yale」も元歌の「The brave ...
早稲田大学校歌のトリビア (5)都の西北と軍艦マーチ
早稲田大学校歌のトリビア (13)誤報と虚報 について知っていることをぜひ教えてください facebook稲門クラブの鈴木克己さんの2021/09/19の投稿を許可をいただいて転載させていただきます。(転載する場合ご連絡ください。) つくられてから100年余にわたり数え切れない人々に歌われ、親しまれた、という結果から逆算して、これほどの素晴らしい校歌が生まれるときには関係者のさぞかし大変な苦労や工夫、感動的なエピソードがあったことだろう、そうに違いない…と思いたくなってしまうところに、実は落とし穴があります。早稲田大学校歌にまつわる「美談」「奇談」のいくつかを検証してみましょう。 校歌の3番は、三木露風が書いた 2007年の本学創立125周年・校歌誕生100周年を記念して、第一回校歌シンポジウムが稲門祭の一行事として開催された際、終了後に声をかけて下さった校友の方が何人かおられて、その中に戦前のグリークラブ(当時は音楽協会合唱団の名称で活動していた)に在籍していた方から、「昔のグリーには、『校歌の三番の歌詞は、本当は三木露風が代筆した』という言い伝えがあった」と伺いました。 本当だったら校史を書き換えるべき一大事なのですが、これは伝聞が続くうちに話が変わってしまったと判断すべき事例です。 校歌に携わっている頃の東儀鉄笛や相馬御風の様子を客観的に記録したものはほとんど残っていないのですが、当時、高等師範部を卒業したばかりで御風とも親しくしていた詩人・歌人の有本芳水(1886-1976)がのちに随筆の中でエピソードを披露しています。それによると、御風と三木露風、ほかの友人らと酒席を囲んだ折りのこと、ひどく考え込んでいる様子の御風を心配した露風が声をかけたところ、実は今、大学からの依頼で早稲田の校歌を作詞しているのだが、いい言葉が思い浮かばない、早稲田が母校であることを表現する何かいい文句はないものだろうか、との御風の返事に露風は「相馬君、『心の故郷』という文句を入れたらどうだろうか」と助言して、御風は「いい文句だ、ぜひ使わせてくれ」と喜んだ…とのことです。 つまり、芳水の記憶に間違いがなければ、3番の歌詞のうち、「心のふるさと」という表現が三木露風の助言によったものだということでして、おそらく、当時この逸話が関係者のどこかから流れて行くうちに針小棒大に歌詞全体を露風が書いたことになってしまったのでしょう。 1・2番を御風、3番を三木露風が書いていたら、ことばの選び方や作風に明らかにずれが出てくるはずですけど、「理想の影→光」のように使われているモチーフは連続しており、露風が創作に入り込む余地があったとも思えません。 話は変わりますが、「早稲田の栄光」の作詞者である岩崎巖さんにお目にかかった際、「補作・西條八十」とあるのはどの部分だったのかお尋ねしたところ、詳細は記憶していないが、4番の「先哲の面影偲ぶ…」以下は西條先生が書き足されたものです、とのことでした。2番と3番が学生や校友の心情を歌い上げているのに対して、1番と4番は大学の歩む姿を歌っていますから、西條八十が歌詞全体の構成をシンメトリーなものに改めた意図が痕跡として残っているのだと感じました。 「早稲田、早稲田、…」は坪内逍遥の発案 相馬御風が校歌の歌詞を坪内逍遥のところに持参して読んでもらったら、「大いに誉めたたえ《一ヵ所も手を入れることなく》ただ『早稲田、早稲田、…』の七句をわずかに書き加えるのみであった」という記述は、「早稲田大学百年史」にも引用されている話で、長きにわたって広く実話であるかのように流布しています。 しかしながら、その場に居合わせた誰かが目の当たりにしているような講釈もどきの実況をさもありなんと思ってしまうのは禁物です。 複数の著作物に出てくるこの「場面」について、校歌研究会では、目撃者が誰なのか明らかではない、初出の典拠が不明、御風自身による「かなり手を加えて頂いた」との述懐と矛盾する、などの理由から、これは後世の創作に過ぎないとの声が多数を占めました。 さらに、作曲がまだなのに、「早稲田」を7回繰り返すことが先に示唆されたか、決まっていたというのは、本末顚倒というか、いかにも不自然な感じがします。 「慶應、慶應、陸の王者、慶應」(若き血)もそうですが、歌詞と旋律の断片を組み合わせ試行錯誤しながら曲をまとめて行くとすれば、校名の連呼が何回になるのかあらかじめ逍遙が知っているはずがないのです。 ...
早稲田大学校歌のトリビア (13)誤報と虚報
早稲田大学校歌のトリビア (11)「理想の影は」は主語か? について知っていることをぜひ教えてください facebook稲門クラブの鈴木克己さんの2021/09/05の投稿を許可をいただいて転載させていただきます。(転載する場合ご連絡ください。) 2番の歌詞の後半を考えてみましょう。相馬御風は校歌の歌詞全体を文語で書いているため、現在の私たちが口語の知識だけで理解しようとすると意味を取り違えてしまうところも少なくありません。 まず、「影」が輝き布(し)くというのは変ではないか、と今時の高校生は言い出しそうです。この「影」は、光のあたらない暗い場所、写った像、姿、不吉な兆候…といった現在主に用いられている表現ではなく、「日、月、星や、ともし火、電灯などの光」を意味する影です。つまり、「星影」「火影」「月の影が差す」といった用例と同じです。従って、3番の「理想の光」は、この「理想の影」に呼応しているわけです。 次に冒頭の「やがても」。「も」は係助詞で「形容詞の連用形・副詞・数詞・接続助詞「て」などを受け、また複合動詞の中間に介入して詠嘆的強調を表わす」(小学館日本国語大辞典)働きをしているので、「ああ、実に…なのだなあ」ぐらいの感情が込められていると考えてよいでしょう。 ここで「やがて」を「まもなく、そのうちに、時が少しずつたって」(岩波国語辞典)といった現代文のニュアンスでとらえてしまうのは禁物です。「ああ、久遠の理想の光は、(これから)まもなく、そのうちに広く天下に輝き広まるだろう」と説明したら、「久遠の」と矛盾します。つまり、天地開闢とは言わないが、早稲田の建学以来ずっと輝いていて、今現在はもとより、これから将来にわたり輝いている理想の精神は「久遠」だと例えているのですから、歌っている時点で、これまでも今も輝いていないが、いずれ輝くことになるだろう…では、「久遠」とは言えません。 古語の語義から項目を挙げている国語辞典をあたってみればすぐに見つかりますが、歌詞2番の「やがて」は、「ある事態・状態がそのままで変わることなく、引き続いて次の事態・状態が出現するさまを表わす語。そのまま。そのままずっと。」(小学館日本国語大辞典)の意味です。つまり、「ああこれまでと同じように、今、そして未来においても変わらず…なのだなあ」といった感じでしょうか。 次に、口語の感覚だと「久遠の理想の影は」を主語、「輝き布かん」を述語とあっさり解釈したくなりますけれども、1・3番の歌詞との共通点を考慮するならば、実は注意が必要なところです。 早稲田大学校歌の歌詞全体には、いくつかの叙述や動作が描かれていますが、興味深いことにいずれも「われら」が関わっていることは皆様ご存知でしょう。文面上ダイレクトに「われら」が出て来なくても、3番の「仰ぐは同じき理想の光」は世の人々ではなく「われら」が仰いでいることが言外に示されているわけです。 となりますと、2番でも「久遠の理想の影」がわれらの手を介さず無関係に「あまねく天下に輝き布」くことはあり得ないでしょう。1番に「かがやくわれら」と描写している以上、「われら」の行為と「理想の影(光)」とは動作の上で結び付いていると解釈しなければなりません。 実は「理想の影は」の「は」は「ごはんは食べてきましたか?」の「は」と同じ助詞で、話題である目的語を提示する働きをしていることになります。 つまり、「輝き布かん」の助動詞「む(=ん)」は 光が「~するだろう」という推量ではなく、話し手(われら)自身の意志や希望を表す「~しよう」という提案ととらえた方が隠れた主語との関係がすっきりします。 最後に残った「あまねく」は、「すべてに広く行き渡るさま。すみずみまで。漏れなく。」(大辞林)を表す副詞です。 以上を整理し補足しますと、 ああ、今までと変わらず将来においても、(われら早稲田の学生は)永遠なる(早稲田の建学の精神である)理想の光を世界中の隅々まで漏れなく輝かせ広めようではないか! ...
早稲田大学校歌のトリビア (11)「理想の影は」は主語か?
早稲田大学校歌のトリビア (10)「大島国の大なる使命」の意味 について知っていることをぜひ教えてください facebook稲門クラブの鈴木克己さんの2021/08/29の投稿を許可をいただいて転載させていただきます。(転載する場合ご連絡ください。) 1番と3番の歌詞は、「あしこ」のように文語として少し分かりづらいところもありますが、総じて言葉や用語の意味がダイレクトに書かれていて、特に背景まで深く立ち入らなくても大意は通じます。 反対に、現役生あたりに内容や趣旨を説明してごらんと問いかけておそらくしどろもどろになるのが、2番の歌詞でしょう。 地理的に世界の東西、歴史的に今昔、ありとあらゆる文化の潮流が日本には渦巻いている…そうした大いなる島国である日本には重大かつ重要な使命があって、私たち早稲田の人間はそれを担なっており、その目指す先は果てなく終わりがない。 さて、その「大なる使命」とは具体的に何なのか。歌っている人間それぞれの思想や価値観に基づいて自由に策定していいではないかといったご意見もあろうかとは思いますが、中には「だいとうこく」を「大東…」と聞き間違えて、明治の頃には存在しなかった「東亜の盟主」「大東亜共栄圏」「八紘一宇」「大東亜戦争」といった軍国日本のイデオロギーを引っ張り出すそそっかしい輩も出かねません。聞いた話では、学生運動が盛んだった頃の早稲田では、左翼系の学生が校歌を歌うときは反動的だからと2番を飛ばすこともあったようです。 学校が配る冊子に、校歌に盛り込まれた個々の表現とその背景・典拠についてしっかりと解説しておけば誤解されることもないはずなんですが、2番の前半の歌詞というのは、時の政府の唱道する国策を鵜呑みにするのが日本(人)の使命だなどという私学の役割やあり方に背を向け踏み外すような内容が書かれているわけでは決してありません。 日露戦争が終結した明治の終わり頃から晩年まで大隈重信侯が講演や談話などでしばしば言及した表現に「東西文明の調和」というのがあります。大雑把にまとめると、エジプト、メソポタミア、インド、中国に代表される太古の文明は東西二つの方向へとその伝播の道を歩むに至った。すなわち、西に向かった流れはギリシア・ローマを経て中世・ルネッサンスのヨーロッパで開花し、産業革命以降はさらに大西洋を渡って合衆国に達し、更には江戸後期の日本に姿を現した。他方、オリエントに起源をもつ文明はインド・中国などアジアの様々なルートをたどり、仏教や儒教などの主要な思想を伴いながら歴代の日本に大きな影響を与えた。 この二つの潮流は相容れぬ価値観をはらみつつ、幕末から明治の日本において深刻な対立や相克を引き起こしたが、日本は多大な犠牲を払いながらも総体的にはその矛盾の解決、克服に努め、近代国家への変貌を遂げることができた。 現在、帝国主義と反植民地闘争のように、世界の各地で見られる紛争の多くは、この東西文明の対立が根底にある。かつてそれらを経験し、解決することができた日本は、さような事態に公平無比な仲裁者として助言し、紛争の収拾に役立つ「調和」へのノウハウを持っているのであるから、よろしくその役割を果たして世界平和の構築・追求に励むことこそわが国の「使命」である――というのが老境を迎えた大隈さんの主張でした。 没後、残された原稿を整理・編集して出版されたのが「東西文明之調和」(1922年)です。「大隈重信(上)(下)」(中公新書)の中で伊藤之雄・京都大学名誉教授は「大隈は日本の有力政治家の中で最も早く「平和論」を唱道した一人であるといえる」と評しています。 相馬御風は、明治40年に校歌を作詞するにあたり、坪内逍遥や島村抱月から早稲田大学の建学の精神その他を詳細にレクチャーされており、その中には大隈さんの現在進行形の発言なども入っていたでしょうから、「東西古今の文化の潮」が「一つに渦巻く大島国の大なる使命」と書き記したのは、「東西文明の調和」という考え方を下敷きにしたものであることは間違いありません。 その後、自身の内閣で「対華二十一ヵ条要求」を出すなど内心忸怩だったであろう弱みもあり、現在でも中国では大隈さんの評判はいま一つのようですが、日清戦争のわずか4年後に清国からの留学生を受け入れ、さらに5年後には「清国留学生部」を設立して1000人とも1500人とも言われる学生が巣立っていったのも早稲田でした。その後の長い歴史において「大なる使命」を日本だけに独り占めさせなかったのですから、今や各国からの留学生が参集する「世界の早稲田」は大隈さんの願いを大きく育て広めたことになります。 東西文明之調和 大隈重信 著 ...
早稲田大学校歌のトリビア (10)「大島国の大なる使命」の意味
早稲田大学校歌のトリビア (2)songとanthem について知っていることをぜひ教えてください facebook稲門クラブの鈴木克己さんの2021/07/04の投稿を許可をいただいて転載させていただきます。(転載する場合ご連絡ください。) 早稲田の校歌こそ「校歌の中の校歌」だ……こう自負している方も多いのではないでしょうか。一方、世間一般が受け止め、取り扱う校歌の在り方や立ち位置と早稲田の校歌のそれを比べてみますと、「校歌らしい校歌」とは異なる点も見えてくることが分かります。 幼稚園や保育園にも「園歌」はあるでしょうけれども、お遊戯の一環みたいなもので、経営が宗教がらみでもない限り、「大切な歌」「重要な曲」といった意味合いはないでしょう。 それが小学校に上がると、入学式や卒業式といった行事・式典と結び付いたイメージで校歌を意識するようになります。公立ではどこでも同じようですが、講堂や体育館のステージに演壇が据えられて壇上には松の盆栽、傍らには校旗がスタンドに立てかけられ背後には日章旗、校長や来賓の挨拶…。歌詞をもじって卑猥な言葉で替え歌などつくれば教師にこっぴどく叱られそうな空気はあったかと思います。 要するに、粗末に扱ってはならぬという暗黙の了解・ルールを伴って小中高と校歌はanthemとしての機能を果たしていたのではないでしょうか。 これが早稲田の門をくぐると状況は様変わりして、学内の行事・儀式はもとよりコンパ、路上にスポーツ観戦…卒業してからも冠婚葬祭ありとあらゆる場面で歌われ、演奏されています。 「葬」と書きましたが、筆者も実際、在学中にクラスメイトが交通事故で亡くなったときにご遺族のたっての希望で校歌を歌ったことがあり、「こういう時にいいのかな」と一瞬頭をよぎった覚えがあります。ところが、ずっと後になって、校歌を作曲し1925年に急逝した東儀鉄笛の葬儀で出棺にあたり当時早稲田の学生だった三男の栄三郎さんと学友たちが校歌を歌って見送ったという故実があることを知りました。早稲田のVIPの追悼式が学内で執り行われる際も校歌の奏楽は欠かせないようです。 私たちは校歌とは当然そういうものだととらえているのですが、よそではそうでもないようです。例えば、1940年に制定された慶應義塾の「塾歌」(信時潔作曲・富田正文作詞)は酒席・路頭で高歌放吟しないという不文律があり、もっぱら式典でのみ歌唱するという、まさにanthemの性格が色濃い曲と言えます。 これはどちらが良い正しいといった問題ではなく、校歌・塾歌そもそもの成り立ちや育て方の違いに過ぎません。慶應の場合、学校の管理・肝いりで取り扱う面が大きかったのとは対照的に、時期・歴史も異なりますが、早稲田では、最初から校歌に対する大学当局の関わりが希薄で学生やその周辺が主体となって校歌を受け継ぎ、育てて行った経緯があります。 もともと1907年の創立25周年を機に「カレツヂ・ソング」を募集するときの文面では儀式にも用いると書いておきながら、実際のデビューは創立記念日の「寸劇」と夜半の「提灯行列」、その後も学生が下宿で部屋の掃除をしながら鼻歌で歌ったり、酒席で騒ぐような形で伝わるものの、学内では行事で歌うどころか歌詞や楽譜を毎年印刷して配るなんてことも一切なく、初めて行事で校歌が奏楽されるのは1915年のことです。 また、企業の社歌や宗教団体の会歌みたいに、組織の構成員の自覚や結束を促す目的で歌われる音楽の場合、外部に広まったりすることを忌避するものですが、早稲田の場合、校歌を学生・教職員・校友のみが歌う門外不出の秘曲とはしなかったようです。一例を挙げると、1913年11月に大隈さんが九州地方を視察した際、佐賀県の鳥栖駅駅頭で演壇に上がるときと汽車が駅を出発するときの2度にわたって地元の学童数百人が早稲田の校歌を歌って歓送迎したそうですから、かなり早い時期から早稲田の校歌はコマーシャル・ソングとしての役割を果たしていたことになります。 こうやって並べてみますと、早稲田大学校歌はanthemというよりもsongとしての性格や役割が今でも強いと言わざるを得ません。「塾歌」と「若き血」を使い分ける慶應とは反対に、「校歌」も「紺碧の空」も同じ愛唱歌として分け隔てしないのが早稲田の流儀と申せましょう。 本学の関係者以外にも校歌の歌詞や旋律が広まっていった理由や背景についてはいずれ取り上げてみたいと思います。 早稲田大学校歌のトリビア (1)「都の西北」は曲名ではない?! ...
早稲田大学校歌のトリビア (2)songとanthem
早稲田大学校歌のトリビア (6)なぜ・どのように有名になったか について知っていることをぜひ教えてください facebook稲門クラブの鈴木克己さんの2021/07/31の投稿を許可をいただいて転載させていただきます。(転載する場合ご連絡ください。) 「曲がよいから」「卒業生が多いから」「グリークラブが歌い広めたから」……漠然としたイメージで語られることが多いようですが、資料などで検証してみると、いつからいつまでの間に誰々が何をしたから一挙に世に知られるようになった…といった類の話ではなかったらしいことが浮かび上がってきます。 しばらく前に六代目春風亭柳橋の新作落語「掛取り早慶戦」のSP音源(1933年)を紹介したことがあります。「みそかのさいそく、だめだよかねは/とりくるいくらか、われらはしらぬ/われらがひごろのびんぼうしるや/しんしょうのくしん、あくせくすれど/どうせこのよじゃ、はらわぬつもり/かかあとわれらがよにげをみよや/だめだ、だめだ、…」という校歌のパロディに東京中の寄席で客が腹をよじって笑い転げたそうですから、昭和の初め頃には早稲田の校歌は歌詞ごとよく知られていたことがうかがえます。 一般に大学野球の興隆とともに歌詞が知られるようになったと見て間違いはありませんが、他にも、早慶戦の前などに学生たちが太鼓を叩いて街頭を練り歩いたり、数年おきに行われていた名物の「提灯行列」などのデモンストレーションも一役買っていたことでしょう。 ただし、球場に出かけた人や1930年代に普及したラジオ放送だけで急激かつ全国的に認知されたという見方には時系列的に無理があるかもしれません。 先に問題点を整理しておきます。 1.「校歌=歌」だから、歌詞とメロディーがセットとなって専ら声楽(歌手や合唱)が普及の担い手になったのだろうと漠然と考えがちだが、ブラスバンドその他の「器楽系」の役割が見落とされたり、過小評価されてはいないか。 2.早稲田の曲だから早稲田の関係者による演奏や宣伝だけで世に知られた、と断定するのは早計である。三木佑二郎さんが1965年に作曲した応援曲「コンバットマーチ」が早稲田のブランドとは関係なく日本中の吹奏楽部に広まったのが格好の例だが、最初は歌詞抜きで校歌の旋律が早稲田とは無関係のルートで流布した可能性も無視してはいけない。 3.早稲田大学グリークラブのように、現在でもその存在が知られている音楽サークルが昔からずっと校歌周知の最前線にいたと思い込んでしまうのも無理からぬ話だが、戦前・昭和前期までの早稲田の音楽シーンで一世を風靡した部活動の中には今ではその姿がすっかり忘れ去られたものがあり、それらも校歌の宣伝・普及に重要な役割を果たしていた事実を検証する必要がある。 前置きが長くなりましたが、実は、既に大正期に早稲田大学校歌は吹奏楽(ブラスバンド)のレパートリーとして全国で演奏されていた形跡があるのです。そのきっかけとなったのは陸軍軍楽隊でした。 一見すると早稲田とは無縁のように思われますが、現在早稲田のキャンパスに隣接する戸山公園と戸山ハイツは、かつてはその広大な敷地を旧陸軍省が所管しており、練兵場や兵舎、各種教育機関などの施設があり、陸軍軍楽隊の本拠地もここにありました。 早稲田で音楽活動が始まったころから戸山の軍人が楽器を教えに来たり、早稲田の学生(弦楽)と合同でベートーヴェンの交響曲を演奏した記録も残っているほか、1915年(大正4年)から本学で重要な行事や儀式で校歌その他の奏楽をやる際には陸軍軍楽隊に演奏してもらっていたそうです。実際、同年の高田早苗学長更迭式(第2次大隈重信内閣の文部大臣として転出することになった博士の壮行会)の記念写真には隊長の永井建子が写っていますし、いつの何の機会だったかは記されていないものの校歌を作詞した相馬御風は軍楽隊の伴奏で全校の学生たちが校歌を斉唱する様子を見て目頭が熱くなったと書き残していますから、戸山とは校歌の演奏その他で親密な関係にあったことは間違いありません。 (2)で、早稲田はもともと校歌を門外不出の秘曲にする気はなかったようだというエピソードを紹介しましたが、行進曲や軍歌など陸海軍の楽曲は、「哀の極(かなしみのきわみ)」(VIPの皇族の葬儀でのみ演奏された行進曲。先の大喪の礼でも流れた)のような例外を除いて、観閲式・観艦式など一般の人々の耳に触れると自然に市中にも流布し、歌われ、演奏されて行きました。 大正時代になると楽器をたしなむ一般の人も増えて、アマチュアによる吹奏楽団が各地に誕生し、遊興地や百貨店に少年音楽隊が組織されるなど、ブラスバンドはポピュラーな存在になって行きます。 演奏家や指導者の中には軍楽隊の出身者もいたでしょうから、レパートリーの中に軍歌などと並んで早稲田大学校歌も平明で聴き心地の良いマーチとして各地に広まっていったことは怪しむべきことでもありません。 ...
早稲田大学校歌のトリビア (6)なぜ・どのように有名になったか
早稲田大学校歌のトリビア (4)「早稲田の森」の謎 について知っていることをぜひ教えてください facebook稲門クラブの鈴木克己さんの2021/07/17の投稿を許可をいただいて転載させていただきます。(転載する場合ご連絡ください。) 「早稲田大学百年史」で校歌が生まれた経緯と歌詞の典拠について執筆したのは、明治文学史の研究で知られ校歌についての著作も書かれている木村毅先生(1894-1979)であろうと言われています。「久遠」は仏教用語だが島村抱月の講義でしばしば言及されていたとか、「聳ゆる甍」は日露戦争期の小学唱歌「いらかは雲に聳えたり」に関連するのではないか、等々、興味深い点を指摘されているのですが、「早稲田の森」については直接インスパイアされたものはなく、学園を緑に見立てたのだろうとあっさりまとめておいでです。 文中、「学の独立」は本来「学問の独立」としたかったのを字余りで削らざるを得なかったのだろう、とありますが、「百年史」では、校歌の5年前に坪内逍遥が早稲田初のカレッジ・ソングとして作詞した「煌々五千の炬火は」の1番に「東洋君子の国に真個の学徒あり/学の独立を屹然標榜し」とあるのが見落とされたようです。この作品は永井建子(ながいけんし)の軍歌「元寇」の旋律を借用した替え歌ということもあり、評価されなかったのかもしれませんが、「城西の空」といった下りとともに校歌の歌詞に影響を与えた可能性もなきにしもあらずと言ってよいでしょう。 「百年史」が触れていない重要な資料が米イエール大学の学生歌「Old Yale」です。この曲の存在は、1960年代には既に知られていて、実際に先方に問い合わせたら「現在では歌われていない」との返事が来て、その後特に問題視されることもなかったものの、当時としてはそれ以上調べようもなかったのでしょう。 2007年の校歌誕生百年を機に、校歌研究会でシンポジウムを開いたり、大学史資料センターが会津八一記念館で資料の展示を行ったりしたのですが、その際、「Old Yale」の英文の歌詞を御風は読んで、影響を受けたのかどうかが話題になって、私は1906年に英文科を卒業している御風のことだから、日本では先例の乏しいカレッジ・ソングを作歌するにあたって、どのようなことを盛り込めば良いのか参考にしたことは当然考えられると具体例を挙げて報告しました。 1.歌詞の中で「一千年の時、過ぐるとも、母校は旺盛な緑木のごとく今なお盛んなり」「かつて、果敢なる我らが父祖が、この丘と森の地に至りしいにしえの日々」「かつて青二才の如くそびえ今やかほどに元気旺盛な森の中に立ちしは、幾代を経て、国の誇り、自由の守り手たるイエール」といった描写は、学園を木立や森にたとえた比喩であり、「早稲田の森に聳ゆる」「常盤の森」の典拠は、これではないか。 2.「かつて、果敢なる我らが父祖が…祭壇に灯したる高き望みは、清く聖なる炎として輝きたり」は、建学の思想や精神を炎や光になぞらえた表現であり、「かがやくわれら」「理想の影」「輝きしかん」「理想の光」に結実したのではないか。 3.「激しく、疾風に乗って響き渡る「イエール」の応酬。その厳しさ、ときの声のごとし」「共に巻き起こる賞賛の歌声は、山谷より響き来る」と母校とその名を賞賛する歌声が到るところで怒濤のように響くという描写が、「いざ声そろへて空もとどろにわれらが母校の名をばたたへん」につながったと考えられないか。 たまたま描写や記述が一致しただけだと決めつけてしまうのは無理があると思いました。 御風自身も、校歌ができた20年後の回想の中で、「東儀さんと打合せをしましたところ東儀さんのところに英米その他の国の大学の校歌を学校で取り寄せたのが来て居ましたので、先づ取り敢へず、それを片端から読ませて貰つたりしました」と記している以上、「Old Yale」に限らず、参考にしたカレッジ・ソングの歌詞があったことは事実でしょう。 この話を研究会でしたときは、旋律ばかりか歌詞まで似ているのに顔を曇らせ、あまり表沙汰にしない方がよい、とタブー視する参加者もいたのですが、そもそもどんな文芸作品でも無から有を生み出すものではなく、先行する諸作品の様々な要素を換骨奪胎して取り入れて成立するものです。外国の作品を参考にしたことを恥ずかしがったり隠したりする必要はないでしょう。 「Old ...
早稲田大学校歌のトリビア (4)「早稲田の森」の謎
早稲田大学校歌のトリビア (3)あれ見よ「かしこの」は「あしこの」だった について知っていることをぜひ教えてください facebook稲門クラブの鈴木克己さんの2021/07/11の投稿を許可をいただいて転載させていただきます。(転載する場合ご連絡ください。) 1907(明治40)年10月21日に初めて校歌が披露されたことは前回触れましたが、本学図書館の特別資料室にはその際配られた紙が保管されていて、歌詞と楽譜(数字譜)が印刷されています。それには3番の冒頭の部分は「あれ見よあしこの」となっており、当日の行事諸々について報告した「早稲田学報」11月号には、夜半に大隈邸の前に集結した学生等が提灯を手に校歌を歌ったとの記述があり、そこに掲載された歌詞も「あしこの」となっていることから、誤植ではなく作詞された当初は「あしこ」だったことが分かります。 早稲田大学混声合唱団の50年史に校歌に関して詳細なレポをまとめたOBの石井洋一さんによると、図書館にある校友やその遺族などから寄贈された当時の「卒業記念写真帖」をたどって行くと、1915(大正4)年の理工科と政治経済学科のアルバムに掲載された歌詞に初めて「かしこ」が登場し、数年のうちに「かしこ」が「あしこ」を駆逐してしまったようだとのことでした。 当時の記録が完全に残っているわけではありませんが、これは大学の告示などで今日から「かしこ」に変えるから云々の指示があって「かしこ」にしたわけではないようです。 その後、創立125周年(校歌誕生100年)を機に活動を開始した校歌研究会の席上、大学史編集所(現在の大学史資料センター)が刊行した「早稲田大学史記要」の中に、大正期に早稲田に在籍していて、のちに職員になった人の座談会が収録されていて、面白いことに、ほぼ同じ時期なのに自分は「あしこ」と歌っていた、「かしこ」と歌っていたと記憶している人が混在していました。これは卒業アルバムの状況とも一致している証言でしょう。要するに、散発的・自然発生的に「かしこ」になっていったらしいのです。 では、どうして「あしこ」が「かしこ」に変わってしまったのか?従来、方々で解説されているのは、1.カナ書きの「アシコ」が「カシコ」と誤読された、2.当時一般に用いられていた変体仮名の「阿し古」が「可し古」と誤読・誤記された…と、書き言葉に原因を求める説があります。 これに対して、私は校歌が誕生以来取り扱われ、学生たちの間で受け継ぎ伝われてきた状況に着目するならば、言い間違い・聞き間違いという「伝言ゲーム」が原因ではないかと見ています。 校歌誕生から数年間、大学が楽譜を配布したり、歌唱指導を徹底した…といった形跡はなく、学生たちが自主的に勝手に歌っていたという話は前回書きました。つまり、歌詞カードを渡されたり作曲者の東儀鉄笛から直接練習指導を受けたり、早稲田音楽会声楽部(グリークラブ)の試演を聴いたりして正しく歌っていた初代の先輩たちが卒業していくと、あとは口承という聞き覚えにより思い出しながら歌わざるを得なかったわけで、ここに「あしこ」変容の鍵があるのではないでしょうか。 これとは反対に、歌ではありませんが、「教育勅語」の文言が時代や地域によって変わってしまった、違っていた…なんて事態が起きなかったのは、各学校で原本(のコピー)を厳重に保管し、時折取り出しては奉読し、書写・暗唱させるという管理・指導が徹底していたからに他なりません。こういったチェックはこと早稲田の校歌の初期において全くなかったのは確かです。 「あしこ」「かしこ」とも、源氏物語や伊勢物語に使用例がある「遠称の指示代名詞」で、いずれも話し手・聞き手ともに離れた場所を指し示す「あそこ」を意味します。「あしこ」は上方の方言として定着し、「かしこ」の方が全国区になって、明治・大正期でも一般的な使用頻度に大きな差が生じていたのでしょう。これは国語研究所のデータベースなどで計量的に把握できるのではないかと思います。 一般に歌詞というものは文字や単語の羅列として機械的に把握し、覚えるということはありません。外国語の曲を丸暗記させられる場合ならともかく、通常は描かれた情景や感情と結び付いて言葉が発せられるものです。 となりますと、ほら見てごらん、あそこだ、あの場所だよ、いつまでも変わらぬ(早稲田の)森は…といった感慨によって歌が再現される際、原本を欠いた状態では、無意識のうちに創作してしまう、ことばの取り違えが生じてしまう可能性は高くなってくるはずです。 「早稲田大学百年史」では、あしことかしこと二通りの歌い方があるが、本来相馬御風は「《あ》れみよ《あ》しこの」と韻を踏んで敢えて聞き慣れぬ「あしこ」を採用しているのだから、「かしこ」では作歌の狙いを生かしていないことになる、と解説しています。 時代は下って1957年に早稲田で初めて学生による第九交響曲が上演されたとき、校歌も歌おうと練習を始めたらサークルや個人ごとに歌い方にバラツキが出て、当局に元の正しい楽譜を見せて下さいと問い合わせたら、そもそも学校にも保管されていないことが分かって、すったもんだの末に東儀鉄笛の5男・仁五郎さんの手元に自筆の楽譜があるのを取り寄せたら「あしこ」となっているので、それなら正調でやろうと「あしこ」で歌うようになったら、古参の校友から「今の若い連中は、校歌を変な風に変えて歌っている、けしからん」と苦情が来た由。要するに、自分が慣れ親しんだものが正しい、一番だという感情も絡んでくるのでしょう。 今さら「かしこ」を間違い呼ばわりする必要もないと思いますが、校歌誕生に関わった坪内逍遥、島村抱月、東儀鉄笛、相馬御風の墓前祭で献歌するときは、「あしこ」のオリジナルを踏襲するのが先人への礼儀かと思います。 ...
早稲田大学校歌のトリビア (3)あれ見よ「かしこの」は「あしこの」だった
早稲田大学校歌のトリビア (12)東儀鉄笛と東儀秀樹さん について知っていることをぜひ教えてください facebook稲門クラブの鈴木克己さんの2021/09/12の投稿を許可をいただいて転載させていただきます。(転載する場合ご連絡ください。) インターネットに流れている誤った情報の一つに「東儀鉄笛の孫が東儀秀樹」というのがあります。困ったことに二人とも専門は篳篥(ひちりき)なので、さぞかし先祖か子孫なんだろうと思いたくなるのも無理からぬところですが、十数年ほど前に校歌研究会のツテで鉄笛のお孫さん(女性)にお目にかかる機会があり、家系図も見せて頂いたのですが、同じ東儀姓でも直接の親類ではないとのこと。もっともお兄さんが宮内庁式部職楽部に奉職されていたので、同僚として秀樹さんとは顔見知りだったそうです。 女優の貫地谷しほりと同じ貫地谷という家は全国に16軒しかなくて、全部親戚だと報道されたことがありますが、楽家の東儀家は聖徳太子の時代に渡来した秦河勝が始祖とされ、奈良時代に雅楽を家業として東儀を名乗り始めたとのこと。それだけ長く続けば藤原氏みたいにいくつもの家系が生まれて、幕末には13を数えたそうです。 鉄笛の東儀家は元々都の伶人であった一方、秀樹さんの東儀家は長く江戸にいて徳川幕府に仕えていた3家の一つだったようです。江戸時代には双方の家の間で嫁入り・嫁取りもあったので、全く関係が無かったわけでもないとのこと。 ちなみに、武家の徳川が公家の真似をしていたのかと意外に思われるかもしれません。イメージ的には雅楽は宮中で専らやっていたように思われがちですが、奈良の春日大社など古くからあった各地の神社でも「神楽」を演奏するプレーヤーが職業として存在していてそれぞれ流派があり、江戸幕府でも儀式の際に雅楽を演奏する職員がいたとのことです。2008年に放映された大河ドラマ「篤姫」(東儀秀樹さんが孝明天皇を演じていた)の中で、病床にある勧行院(和宮の母親)を慰めるために大奥で雅楽が演奏されるシーンが出てきますが、あれはわざわざ京都から楽師を呼び寄せたわけじゃなくて元々千代田の城に詰めていた幕臣にやらせたことになります。 なお、鉄笛はペン・ネーム兼芸名(晩年は俳優としても活躍した。松井須磨子の芝居や映画では須磨子と島村抱月の仲を嫉妬する役で描かれているが、これは創作とのこと)で、東儀家に代々伝わっていた鉄製の笛にちなんで名乗った由。本名は季治(すえはる)。父・季芳(すえよし)も篳篥の雅楽家で、式部職楽部の同僚と一緒にドイツ人の先生からピアノを習うなど、明治の早い時期に西洋音楽に接したパイオニアでもありました。唱歌の作曲も多く、海軍儀礼歌「海ゆかば」もこの人の作品です(信時潔の同名の曲とは別。「軍艦行進曲」の中間部に旋律が引用されている)。器用にピアノを弾きこなしたという鉄笛の血筋は父譲り。西洋音楽に並々ならぬ興味を抱いた親子のお陰で早稲田大学校歌が生まれたことは間違いなさそうです。 早稲田大学校歌のトリビア (11)「理想の影は」は主語か? ≪早稲田大学校歌のトリビア (12)≫ 早稲田大学校歌のトリビア (13)誤報と虚報 早稲田大学校歌のトリビア FrontPageに戻る
早稲田大学校歌のトリビア (12)東儀鉄笛と東儀秀樹さん
早稲田大学校歌のトリビア (8)「男たちの早稲田」の象徴か? について知っていることをぜひ教えてください 2021/08/15 facebook稲門クラブの鈴木克己さんの2021/08/15の投稿を許可をいただいて転載させていただきます。(転載する場合ご連絡ください。) 混声合唱団の若手OGに卒業後も研鑽を重ねてプロのソプラノ歌手になった子がいまして、永楽倶楽部で開かれた稲門祭の前夜祭で森喜朗元首相の前で美声を披露したのがきっかけで方々の稲門会から声をかけて頂いています。モーツァルトやプッチーニのアリアを得意としていますが、早稲田関係の催し物だからと校歌や紺碧の空、早稲田の栄光なども曲目に入れていたら、あるときご年配の校友から校歌は男が歌うものだ云々と小言があったとのこと。「早稲田の君が代」を歌うのに男も女もあるものか、前説のときにひとことクギをさしておけばよい、と返事した覚えがあります。 1966年に第九交響曲の演奏会を開いた際、一部の団体から「世間一般の見方では大学の校歌は男が歌っていると思われている、従って、お金を払って来て下さるお客さんには〝正しい〟形で聞かせるべきだ」との提案があり、混声合唱団の代表委員が激怒して、校歌は男女全員で歌うべきだと方々にかけ合ってみたものの、賛助出演の女子大合唱団は冷淡で、当時主催元だった学生部も追認してしまった由。男声で演奏するというのは、裏返せば、同じ早稲田の学生なのに当時1割いた女性には校歌を歌わせないわけですから、水面下ではかなりの反発があったらしく、その後は校歌の演奏そのものをやめるという実に後ろ向きな形で決着が図られたようです。 下って2007年の創立125周年では第九交響曲の演奏会が12年ぶりに学内で開かれ、女子大の応援を受けずに女声の足らない分は交響楽団で心得のある女性と混声系サークルの若手OGが手伝いに入って文字通りオール早稲田での演奏が実現し、アンコールの校歌も全員で歌われました。さすがに男だけで歌おうなんて声は出なかったようです(今時そんなことを口にすれば怒った早稲女にリンチされ尻の毛残らず抜かれるのがオチでしょうが[笑])。 テレビ番組で早稲田が取り上げられるときにBGMでは未だに男声合唱の校歌が流れたりするのが「校歌は男が歌うのが本式」という誤解を生む原因の一つではないかと見ています。ブラスバンドの伴奏にグリークラブが堂々と歌い上げる録音そのものにケチをつける意図は決してありませんが、あのレコードやCDは母校を懐かしむ校友向けに大学周辺で売られている「早稲田土産」に過ぎず、実際にはああいった形で校歌を「聴かせる」場面は存在しませんし、男声合唱の校歌がオフィシャルな演奏形態だと認定されたこともないようです。 それどころか、入学式や卒業式で管弦楽団や吹奏楽団が担当する奏楽に合唱も参加させてくれと昔から働きかけているのだが「声楽抜きが慣例だ」と頑として認めてくれない、とグリークラブのOBの方が悔しがっていました。あれはガウンと帽子で正装した教授陣の入退場で流す「出囃子」なので3の倍数で曲が終わるとは限らず、歌詞が付くと「尻切れトンボ」になってしまいかねないという実用的な理由からでしょう。 欧米の大学の行事では大学付属のチャペルの聖歌隊がCollege Anthem(校歌)を歌唱して参列者全員が頭を垂れ耳を傾けるという光景が見られるそうですが、こと早稲田では一同黙して校歌を「拝聴する」ことはありません。大詰めに応援部の指導により吹奏楽の演奏に乗せて男女問わず学生・教職員が皆で「歌う」のが校歌です(入学式でグリークラブが歌っているではないか、と反論されそうですが、あれは式が始まる前の新入生向けの「歌唱指導」で、式次第に組み込まれているわけではありません)。 ちなみに、アメリカ合衆国ではカウボーイ姿の男性が牛に飛び乗ったり、暴れる馬にまたがったりする「ロデオ」というショーがありますが、現在あれを演じているのはプロのスタントマンで、実際に牧畜に携わっている本物のカウボーイはあんな乱暴な真似はしないそうです。こういった紛らわしさは早稲田大学校歌にもあって、上述の「早稲田土産」に限らず、管弦楽・吹奏楽その他の器楽系やグリー・混声・合唱団・フリューゲルなどの声楽系それぞれの音楽団体が観客相手に披露しているのは、いずれも編曲という演出を加えておめかしし「ショー・アップ」された〝よそ行き〟の校歌に過ぎません。学生あるいは校友が日々育て受け継いで歌ってきた「普段使いの校歌」とは別物と見るべきなのです。 校歌は男が歌うものと思い込んでいるご老人はこの違いを理解していないか、あるいは100年前から早稲女が活躍していたことも知らずに大学の担い手はずっと男だったと決めつけているmisogynistに過ぎません。 夏の全国高等学校野球選手権大会の大会歌である「栄冠は君に輝く」(古関裕而作曲・加賀大介作詞)はもともとバリトン独唱と男声合唱により歌われていましたが、平成に入る前後あたりから混声合唱の録音に代わり、地方大会で献歌されるときも女子がソロを務める例が出てきています。試合は球児だけでやるものではなく、関係者に男女の隔てはないという考え方が滲透してきたことが背景にあるようですが、大相撲の土俵とは異なり、男女共学が当然のことと考えられている時代に校歌や学生歌だけは伝統を守り専ら男声でというのは通用しません。 アイビー・リーグと呼ばれるアメリカの名門8大学では、大学院への女子の入学は1世紀以上前から認められていた一方、学部は「若者組」の牙城である学寮とセットで歴史を刻んできたこともあり、1968年頃にようやく男女共学が実現しました。その際、College Songの歌詞にあるsons, boys, ...
早稲田大学校歌のトリビア (8)「男たちの早稲田」の象徴か?
早稲田大学校歌のトリビア (14)19世紀・明治期の校歌・学生歌 について知っていることをぜひ教えてください facebook稲門クラブの鈴木克己さんの2021/09/26の投稿を許可をいただいて転載させていただきます。(転載する場合ご連絡ください。) 本シリーズの締め括りとして米イェール大学の学生歌「Old Yale」と早稲田大学校歌の旋律に一部類似が見られることに対して私なりの見解をまとめてみたいと考えています。その前に、早稲田大学とは直接の関係はありませんが、一般的な予備知識として(現在の考え方とは異なり)明治期あるいはそれに先行する19世紀の欧米において、校歌や学生歌とはどのようなものだったのか、どのように生まれ、扱われていたのか、触れておきたいと思います。 「早稲田大学百年史」の中で、本学の校歌と並んで挙げられている「金剛石もみがかずば」という曲があります。明治8年(1875年)、東京女子師範学校(後のお茶の水女子大学)の開校式に当時の皇后陛下(昭憲皇太后)が臨席され、「磨かずば 玉も鏡もなにかせん 学びの道もかくこそありけれ」との御歌を賜りました。3年後の明治11年10月、この歌に宮内省楽師の東儀季煕(すえひろ)が曲を付けた「みがかずば」が正真正銘わが国初の校歌となりました。のちの文部省唱歌とは異なり、雅楽を思わせる間延びした鷹揚な歌いにくい旋律でした。 (ちなみに、大正2年に出た「尋常小学唱歌」の五年生用として、同じ詩に西洋風の曲を付け直した「金剛石もみがかずば」という同名異曲があり、東京女子師範学校でも元の曲に代えて、こちらを校歌としたことから、そうした経緯を知らずに、新しい尋常唱歌を「日本最初の校歌」として紹介してしまう間違いもあるようです。) さて、日本の校歌第一号は作詞・作曲ともオリジナルであったものの、その後、唱歌とともに明治日本の教育現場で奨励された校歌は、歌詞こそ各々の地域・郷土の風物を盛り込んだ独自の詩歌が作られましたが、こと旋律については、新たに創作するのではなく、既存の楽曲からの転用・流用が大半だったのです。 その主な理由は、 一.しかるべき作曲家がいない 一.委嘱の費用を工面できない 一.歌唱指導が面倒・困難である 一.せっかく作っても、定着・普及するとは限らない 等々、各地の学校にとって負担・制約が大きかったからでしょう。 明治政府は大金を投じて「御雇外国人」を多数欧米から招聘し、中にはシャルル・ルルー(「扶桑歌」「抜刀隊」)やフランツ・エッケルト(「君が代」「哀の極」)など作曲にも長けた軍楽隊の指導者がいましたが、そんなえらい音楽家にその辺の小学校の校歌など頼めるはずもありません。また、西洋音楽の受容も明治を通じて少しずつ進んではいたものの、瀧廉太郎のような才能が登場するのは19世紀末のことで需要と供給のアンバランスは長く続かざるを得ませんでした。 ...
早稲田大学校歌のトリビア (14)19世紀・明治期の校歌・学生歌
早稲田大学校歌のトリビア (1)「都の西北」は曲名ではない?! について知っていることをぜひ教えてください facebook稲門クラブの鈴木克己さんの2021/06/27の投稿を許可をいただいて転載させていただきます。(転載する場合ご連絡ください。) 早稲田の校歌は「都の西北」という曲だと思っている人が学外にいるのは致し方ないところですが、肝心の現役生や校友でも誤解している人がかなりいるらしく、稲門会の印刷物に歌詞を掲載するのに「早稲田大学校歌《都の西北》」と記載しているのを見かけたことがあります。 無粋ですが、本学の校歌の正式な名称は「早稲田大学校歌」です。タイトルはもとより副題にも「都の西北」という独立した呼び名はありません。作詞者の相馬御風も校歌の揮毫には「早稲田大学校歌」とのみ記しています。 オペラのアリアで歌詞の冒頭をそのまま曲名として通称することはよくあることですが、「都の西北」という表現は歌詞の歌い出しとしてあまりにも世に知られており、大学近辺の企業や商店に「西北」の名を冠したところが昔からあるばかりでなく、週刊誌などのマスコミが早稲田を取り上げる際、「都の西北を揺るがす…」のように、「都の西北」が早稲田大学のメタファーないし代名詞として広く滲透しているための副作用みたいなものと言えなくもないところです。 それだけ愛称として親しまれているのですから、「最後に参加者全員で『都の西北』を歌ってお開きとしました」みたいな使い方に目くじらを立てる必要もないと思いますが、母校愛に溢れる校友なら正しくは「早稲田大学校歌」なのだというところは理解しておいてもよいでしょう。 なお、「西北」という使い方を「早稲田大学百年史」では、本来なら「西北西」とすべきところを字数の関係で削ったのではないかと記載していますが、古くは万葉集の題詞にも「遷任旧宅西北隅桜樹」という下りがあるそうで、「西北」そのものが早稲田出自の造語というわけではないようです。 また、本学が新キャンパスを幕張ではなく所沢に選んだのは「都の西北」にこだわったからだ…とまことしやかに語られるくらい歌詞の重みはあるようですが、早稲田の位置関係をこのように意識させたのは御風一人の創作ではなく、校歌誕生の5年前に坪内逍遥が作詞した本学初のカレッジ・ソングに「煌煌五千の炬火は城西の空を焼き今ぞ立ち出づる早稲田の健児隊」との一節にインスピレーションを得たようです。以上ご参考までに。 ≫早稲田大学校歌のトリビア (2)songとanthem 早稲田大学校歌のトリビア FrontPageに戻る
早稲田大学校歌のトリビア (1)「都の西北」は曲名ではない?!