ここでは、「非戦の誓い」碑 について紹介します。
在所:香里ケ丘八丁目12-32
【ポイント】
①.平成20年(2008)08月15日建立。
②.元学徒動員女学生たちが終戦記念日に当って、「非戦の誓い」を形として残す。
【関連写真】
【補足説明】
①.碑の表面
在りし 軍国少女 非戦の誓い
②.裏面の誓文
太平洋戦争中、ここ陸軍造兵廠香里製造所では多くの学徒が動員され、危険きわまるりない環境のなかで、 昼夜の別なく爆弾や砲弾に火薬を詰める過酷な労働を強いられました。
なかでも大阪府立泉尾・市岡高等女学校及び私立明浄高等女学校の生徒の大半は昭和20年3月の大阪大空襲で家を失い、その悲しみのなかを同年5月から黄・白・褐色の火薬が舞う不健康きわまりない危ない作業を、昼夜2交替であうるために寄宿舎に入れられました。
その間、きびしい食料事情と劣悪な寮生活に耐え、そのうえ大阪方面に米軍の空爆がある度に壕で身を屈め、時に機銃掃射をうけるとにげまどいました。こうして終戦までこの地で国家の命に従いました。このような女学生の戦争体験を無にしないため、ここに非戦の願いを込めて碑を建立するものです。
平成20年08月15日 大阪府立泉尾高等女学校21期生
大阪府立泉尾高等女学校23期生
大阪府立市岡高等女学校33期生
私立明浄高等女学校23期生
及び、市民・教職員・有志一同
③.建設の由来・・・元枚方ボランティアガイド南場さんの資料より
この碑は、当地にあった火薬工場「東京第二陸軍造兵廠香里製造所」に学徒動員された元女学生や家族らが、「軍国主義に何の疑いもなく染められていたことを伝えたい。戦争は二度と繰り返してはならない。」との思いから建立されました。同製造所では1945年5月から終戦まで、府立泉尾、同市岡、私立明浄の3高等女学校の女学生らが、寮に泊まり込みながら昼夜2交代制で火薬を爆弾や砲弾に詰め続けました。明浄高女卒業生で仁丹(ニタン)美智子さん(78)は「3月の大阪大空襲で家を焼かれました。この3校が大阪を代表して第一線で働くのだといわれ、これ以上名誉なことはないと思ったそうです。撃ちてし止まむの精神で頑張った」と振り返る。「非戦の碑」の裏面の金属プレートには、「終戦までこの地で国家の命に従いました。このような女学生の戦争体験を無にしないため」と建立の趣旨を書いています。碑文を揮毫した井上知津子さん(77市岡高女卒業 三重県名張市在住)は、「何の疑いもなく、お国のためと思って働いました。今、平和の尊さを身にしみて感じています。少女たちが経験したことを知ってほしい」と語られています。昨年5月3校の有志が当時の作業や寮生活の様子を纏めた証言集を出版。この売り上げや215人の寄付で碑を建てる計画を進めました。碑は寄贈を受けた枚方市が管理してます。除幕式には約100人が出席。除幕とともに平和を祈る拍手が空に響きました。
※ 学徒動員とは 日中戦争はじまってまもなく食糧、軍需品生産の人手不足を補うため学生・生徒を動員し勤労させた。学徒勤労動員ともいう。太平洋戦争中の1944年3月の学徒動員令からは中学生(旧制)以上は全員、軍需工場などに動員され、45年8月の終戦まで、学校教育は事実上停止した。
戦前の枚方は火薬から砲弾までの製造軍事工場の町だった。平成元年(1989)、枚方市は禁野火薬庫爆発から50年目にあたる3月1日を「平和の日」と定め、二度と戦争のないことを後世に伝えることにしている。