京都と地方を結ぶ水の道
-古代・中世の琵琶湖・淀川水運を中心として-

CC BY   宮内庁ホームページより

1.国家貢納物の輸送と琵琶湖水運

「京都が都になる以前,奈良が平城京として都であった時代から,中央の政府は,国家の維持や財源確保の目的で,国内の各地域から国家貢納物を徴収していました。国家貢納物の種類は,おおざっぱにいって(地図1),日本海側や西日本の地域からは米などの重い物資が多かったのに対し,東日本の太平洋側は絹や綿といった比較的軽い物資が多いのが特徴であります。これは,日本海や瀬戸内海が航海に適していたこと,さらに琵琶湖の水運が利用できたことがあげられますが,一方,東日本の太平洋側は波も荒く,航海に適さず,物資は陸上輸送されたためと言われています。都が京都にうつった後,10世紀初めに『延喜式』という法令集が編纂されましたが,そこには,その当時の国家貢納物の輸送の実態もよく記されております。ここには,都に集まってくる国家貢納物の内容や運賃,さらには輸送ルートまで,明確に記されています。

(地図2)をご覧下さい。『延喜式』によりますと,北陸地方の貢納物については,敦賀(現在の福井県敦賀市)へ海路輸送され,そこから琵琶湖の北岸の町である塩津へ陸送され,琵琶湖の水運を利用して大津へ運ばれ,後は陸路で京都へ運ばれました。ちなみに,塩津と大津の間は,航路にして約60キロあります。また,琵琶湖の北西に位置する現在の福井県西部に当たる若狭国からの貢納物については,陸路琵琶湖の西岸の勝野津(現在の高島町)と呼ばれる場所へ陸送され,そこから琵琶湖水運を利用して大津へ回漕されております。

また,東日本から運ばれる貢納物は,主として「東山道」という東日本から来る主要な街道を通りまして,琵琶湖の東の朝妻(現在の米原町)に集められ,そこから大津へ回漕されました。

このように見てきますと,琵琶湖においては大津が物資の集散地として重要な役割を果たしていたように見えます。ちなみに,大津は,平安京を造った桓武天皇の曾祖父にあたる天智天皇が大津京として,667年に都と定めたところで,672年に大津京が廃絶してからは古い港を意味する「古津」と地名を変えていましたが,京都が都となったことで大津がいわば京都の外港の役割を果たすことになり,再び大津と改称されました。」

2.荘園年貢輸送と琵琶湖水運

「この『延喜式』という法令集が編纂された10世紀以降,それまでは国の土地であった場所を,有力な社寺や貴族が私的に領有するようになり,荘園制度が発展してきます。荘園制度のもとでは京都在住の貴族や有力社寺が,日本各地に領有している荘園から,財源としての年貢を徴収するようになりました。荘園年貢は,米が主体でしたが,ところによっては,塩,絹,綿,鉄等もあり,年に一回の割合で送られてきました。

ここにおいて,輸送物資は国家貢納物から荘園年貢へと転換いたします。

では次に,荘園年貢の輸送と琵琶湖水運の関わりについて紹介します(地図1)

日本海側の越後,能登,加賀,越前(今でいう新潟県,石川県,福井県にあたります)からの荘園年貢は,海路敦賀または小浜へ輸送されまして(地図2をご覧下さい),今度は琵琶湖の北の塩津・海津・今津などの港に陸送され,琵琶湖を船で大津,坂本に着け,更に馬や車で京都に運んだと言われています。なお,当時の車は,牛や人が引いたものが多く,日本に馬車が導入されるのは都が東京にうつる19世紀半ば過ぎの明治時代になってからでありました。

例えば,京都の東寺が領有していました現在の小浜市にある若狭国太良荘からの年貢は米でしたが,太良荘から陸路を琵琶湖の北西の今津に送られた後,琵琶湖水運を利用して大津へ運ばれ,再び陸路で京都の東寺へ送られました。

また,比叡山にある延暦寺のお膝元坂本(現在は大津市内)は,延暦寺領の荘園年貢が集まる場所として賑わいました。延暦寺は8世紀末に開かれた天台宗の密教寺院ですが,全国に多くの荘園を持っていました。

このように琵琶湖の水運が活発になってきますと,航行する船から,関税を意味する関料を徴収する目的で,税関に当たる関所が作られるようになります。関所の多くは延暦寺が領有し,徴収された関料は延暦寺の建物の造営費に充てられました。ちなみに,15世紀には,延暦寺の領有する関所が琵琶湖の湖岸に11箇所存在したといわれており,徴収された関料は積み荷に対し,おおよそ100分の1が徴収されたといいます。

また,これも今は大津市内になっていますが(地図2),堅田と呼ばれる場所は,琵琶湖のもっとも狭くなっている場所に位置しておりまして,11世紀頃から船の渡し場となるなど,古代より交通の要所でありました。この堅田では,「堅田衆」と呼ばれて,琵琶湖を航行する船の安全を保証するみかえりに,警護料を徴収しているような人々も存在しました。それゆえに,「堅田衆」は琵琶湖の水上交通における大きな特権を持っていました。

ちなみに,ヨーロッパなどですと,周囲に水を廻らした中世の環濠都市が今でも残っておりますが,中世の堅田も,琵琶湖の水を引き込んだ環濠都市的な景観を有していたといわれております。」

 

CC BY   宮内庁ホームページ「第3回世界水フォーラム開会式における皇太子殿下記念講演」より