旅の僧が村里へやってき来て、水を所望したとき、この村にはよい水ができないので、適切な村人が遠くまで汲みに行って与えました。そこで、旅僧は手にしていた杖で地面をついたところ、そこから良い清水がわき出てきたといいます。旅僧が立ち去った後で、弘法大師であったことがわかったという話は、いわゆる弘法井戸、弘法清水、杖つき井戸などの名で全国的に広く分布しています。 上富田町朝来峠の国道四二号線のそばに弘法井戸があります。きれいな水が満ち、汲んだだけ湧き出て、あふれることがないといいます。昔、弘法大師が熊野へ行脚(あんぎゃ)の途上、水を求めたところ、遠くまで汲みに行って与えたので、「この土地は水に不自由のようだから、水の便をはかってやろう」と祈禱(きとう)を始めると、乾いた土地から清水が湧き出てきました。この井戸はどんな日照りにも涸れることがなく、昔から道行く人々ののどを潤したといわれています。 弘法水の伝説は日本伝説名彙によると、内容によって10種類にわかれるそうだが、これは親切にしてくれたので井戸を与えた類型に属し、杖の呪力ではなく祈禱によって水を出しています。  この付近から富田川の河口に至る村々では、以前は豌豆(エンドウ)を作らなかったといいます。大師に豌豆の喜捨(きしゃ)を乞われたが一粒も与えなかったので、その罰として豌豆を作るとさやに穴がないのに必ず虫が入るようになったからです。  本宮町大瀬には「まかずの蕎麦」があり、馬頭観音の境内に「蕎麦大師」が祭られています。弘法大師が熊野参詣のとき、腹をすかせた村人に食べ物を乞うと、村人は食べ物がないので、貯蔵していた蕎麦の種を全部、蕎麦粉にして施しました。大師は親切なもてなしに酬(むく)いるため「この蕎麦の殻をまけば後々食物に困ることはない」と、言い残して去ったが、いわれたとおりにすると殻から蕎麦が生え、それ以来、毎年種をまかなくとも「大師さまの蕎麦です」といって掘れば、必ず蕎麦が自然に生い茂るといいます。  これも弘法伝説で、類型の多い「成木もの伝説」です。米は「筒米」といって竹筒に米をいれてしまっておき、病人が重態となったとき、耳の許でこの筒を振って、米の音を薬にしたという話も残っています。山里の暮らしの中で、芋や蕎麦は主食に近い貴重な食料であった、それが、まかずに生えるのだから大師の威徳(いとく)もさりながら、この付近の山野は気候土質が蕎麦の成育に適し、少し離れた所では最近まで畑地や道端に、ところかまわず自生していたようです。  このような話が、弘法大師以外の高徳の僧や英雄たちの事蹟(じせき)になっているのも、全国的に広く分布しているが、この種類のものに本宮町湯峰の「まかずの稲」があります。  説軽節や浄瑠璃で名高い「小栗判官」が湯峰温泉に入湯したとき、藁で髪を結び、使いのこりの藁を捨てたら自然に根が生え稲になりました。そこの田地は年々籾をまかなくとも稲が実り、これを湯峰薬師の供物にしたといわれています。