愛染堂縁起あうらのかたりべ より

天台宗医王山南栄寺宝乗院別当と言われ、下川上小字本屋敷にあり、以前は、上中条の天台宗常光院の受持寺であったが、最近は同じ上中条天台宗実相院の兼務寺となっています。檀家は、数軒のみで下川上全地区で護寺しています。御堂の開基は、不詳ですが里の伝えによると、愛染明王は、一木三体の尊像で、大王元年九月朔日、近隣大洪水に見舞われた折り、前の大川にいずこともなく流れ来たのを村民これを発見し、ただちに川岸に上げて、仮の民舎の中に安置して信仰しました。ちょうどその頃京都より慧亮という僧侶が来て、一目見て曰く「日本一木三体の尊像なり」と、村びとはそれ以来特に尊信し御堂を建立し安置したと言います。江戸時代、享保六年(一七二一)に改築を始め、同十一年に落成十月十一日入仏式を挙げて現在に到りますが、戦後地区民の浄財により現在の御堂のごとく瓦ぶきとなりました。しかし、それがかえって昔時の尊厳たる面影を無くしてしまいました。語呂合せ的な愛染が、往時紺屋の信仰を受けました。また熊谷や近接町村、花柳界の人達も深い信仰をなしていました。堂内には、立派な文化財が多くあります。古くは元禄時代の諸国巡礼満願の額や紺屋奉納の絵馬などがあり、天保時代の奉納の各種奉額があります。最近著名になった菖蒲町出身で江戸時代の画家の奉額もあり、夏目算儀の和算額等もありますが管理面の都合で詳しい調査ができなかったのが残念です。

学問的に色々問題が判明しました。愛染明王本尊は神仏いずれなのか、一木三体という仏像用語が文献等に記載されてないのは何故なのか、神と仏の何れが正しく符号するものなのか今後の課題としたいと思います。尊像は、おそろしい忿怒の顔をし、全身真っ赤で髪の毛は 焔の姿をかたどりその心は人々を救済しようとする優しさに満ちていると信じられています。密教における尊像の1つで、大日如来または金剛薩埵を本地とする明王とされ、息災と得福に効験ありと信じられている。全身が赤色なのは太陽の象徴とも、大慈悲の象徴とも言われています。愛染とは愛に染まる事だから愛染は藍染に通ずるというので、染物屋の守り神だ、などと本来の意味とは違った形で崇拝されて来たと言われています。(花山勝友著 仏像のわかる本より)

愛染様ととうもろこしあうらのかたりべ より

 下川上地区で戦前までは、とうもろこしはどの農家でも絶対に栽培致しませんでした。その理由は、大昔、江南の野原文殊様と、下川上の愛染様が戦争を致しました。愛染様は戦争に負けて逃げて帰る途中、とうもろこしの葉で、目を痛めてしまったそうです。その為に土地の農民は、愛染様の怒りにふれるを恐れて、とうもろこしだけは絶対に下川上地内には栽培しませんでした。それでも怒りのおさまらない愛染様は、本堂の正面三里の間の民家を全部焼き払ったと言われています。私達子供の頃は、本堂の大樹の上から本当に家の無いのを確めた事もあります。

 たしかにその頃は、見渡す限り南の正面には、家はない様な気がしました。