久松松平家の憲良と忠節  小諸城の祢津曲輪考 について知っていることをぜひ教えてください

 松平憲良の父忠良は関宿藩から、元和2(1616)年に大垣藩へと移封され、寛永元(1624)年、忠良の死により、その跡を忠良の正室(酒井家次の娘)の子、憲良が相続しますが、幼年のため小諸藩へと転封となった。 この時、忠良の側室の子忠節(忠利)に5000石が分知され、旗本として別家を建てた。 ただし、分知の時期については諸説ある。小諸城に忠節の屋敷があったとされ、「祢津曲輪」「松平采女殿」と書かれた屋敷などが小諸城の絵図(小諸市誌付録等)にある。

 陣屋は、当初、東上田に置かれ、寛永7(1630)年までには祢津(東御市)へと移され、以後祢津松平氏は5560石のまま幕末まで続いた。忠節は貞享5(1688)年7月に死去した。享年84才。法号を法雲院殿清岳日潤大居士、江戸谷中の了俒寺に葬られたと云われている。

 一方、憲良は、小諸藩主として、4万5000石を領した。寛永11年(1634年)12月、従五位下・因幡守に叙位・任官する。藩政では寛永年間に検地を行ない、新田開発や5カ所の寺を開基するなどして治世の安定に努めたが、正保4年(1647年)に死去した。享年28才。法合を高樹院殿月山宗江大居士、江戸の総泉寺と小諸の宗心寺に葬られた。

祢津曲輪と馬場は一体で、出丸的な要素となっている。小諸城址絵図(小諸市誌付録)
中央に祢津曲輪と馬場がある。
朱線で描いているのが小諸城
祢津曲輪北側と西側は、現在、黒壁と白壁の蔵。

 

祢津曲輪東側の馬場は、現在、まちたねひろば。

右側が田切地形の台地で祢津曲輪西側右側が田切地形の台地で祢津曲輪西側旧国鉄や道路の敷設により祢津曲輪が分断された南面ののり面。分断され、台地は削られた曲輪の北西の隅分断され、台地が削られた曲輪の南西の隅

 


Front Pageへ戻る