新情報を入手しましたので追加します。(2020年10月)

出典:日本伐木製材及運搬法 漆山雅喜著 明治41年発行 口絵第四

 阿寺御料林内鋸工場写真

明治34年創業当初は丸鋸のみだったようですが、写真では竪鋸が写っています。本史料の出版が明治41年ですので、撮影は明治40~41年位と推定しています。阿寺鋸工場内部の写真は初めて見ました。このすぐ後で、木曽川沿いに大規模な野尻製材所が建設され、この鋸工場は廃止されます。

・出典:大桑村誌 1988年発行

 水力を動力とした製材機(丸鋸)を設備した製材工場が木曽谷に導入されたのは、明治30年で、大桑村の阿寺と上松に開設された御料林局の官行製材所が最初である。

 解説:時期は明治30年ではなく34年と思われます。「大桑村の阿寺」とは、阿寺入御料林内109班に建設された鋸工場の事。「上松」とは上松村小川事業区小川入御料林内中根沢旧伐木会所の下流に建設された鋸工場の事。明治40年時点では操業は休止しています。

 

阿寺森林鉄道の明治34年当時の真の姿 

 高野山森林鉄道は、国有林(農商務省管轄)では、日本で最初の森林鉄道(軌道)と言われています。私の調査では、明治37年12月に工事が始まり、明治38年に供用が開始されています。これより古い森林鉄道(軌道)があるかどうかが調査対象となります。この時点で、出来る限り調べた(つもり)結果、以下の史料を発見することが出来ました。

 

帝室林野局五十年史/帝室林野局編/昭和14年発行(国会図書館デジタル)

要約・引用しますと、

・428コマ 軌道の創始は明治34年の敷設に係る阿寺軽便軌道である。

・430コマ 主として米・塩・味噌等の運搬を目的として在来の経路上に4.5瓩(kg)乃至6瓩軌条を敷設し、最急勾配83/1000(1/20)、最小半径9米内外の極めて不完全なもので木材運搬に使用することは出来なかった。この軌道を運材に適する様に改修して小谷狩りを廃するを得策と認め、明治40年以来逐次改修して機関車の運転に適する森林鉄道に改めた

 

 これを友人に話したところ、「八幡製鉄所で国内製レールの製造が開始されるのが、明治34年11月からと言われています。阿寺で使用されたレールは輸入品で、非常に高価だったはず。そんな高価な鉄レールを米・塩・味噌を運ぶためだけに敷設するだろうか?」と素直な感想を頂きました。私も素直に同感出来ました。明治20年後半から明治30年代の、森林鉄道(軌道)黎明期の真の姿を知るためにも、阿寺森林鉄道が本当に米・塩・味噌運搬のために建設されたのか知りたくなり、本格的な調査を開始しました。

 

 まず、阿寺森林鉄道の所在する大桑村関係を調べてみますと、帝室林野局50年史とほぼ同等の記述がなされていました。ただ、50年史では4.5瓩(kg)となっているところが、4.5kmに変化していました。単位の漢字表記に不慣れだったのかもしれません。私は、呎(フィート)と尺(シャク)をよく混用してしまっていました。

 また、「昭和14年発行 帝室林野局五十年史」の原典を調べてみました。昭和5年7月発行  御料林第26号「御料事業小史」全19回連載、及び、それを本にまとめた、昭和10年発行  明治大正御料事業誌 共に和田国次郎著、に行き当たりました。帝室林野局五十年史が出版されて以降、特に平成に書かれた文献の出典は、ほぼこれらの史料が原典となっているようです。

 

 そこで、この昭和5年以前の史料を探すことにしました。言うのは簡単なのですが、どう探すか、です。次の手として考えたのが、以前に高野山森林鉄道調べた時の経験から、明治36年に大阪・天王寺で開かれた日本最大の見本市の、第5回内国勧業博覧会関連史料探しです。国有林は農商務省山林局が解説書を、大阪大林区署がパンフットを作成していて、高野山の運材の様子も詳しく書かれていました。そこで、御料林でも同様の解説書やパンフレットがないか、国会図書館デジタルで検索したところヒットしました。その名も第5回内国勧業博覧会御料局出品説明書・宮内省御料局編」です。

 様々な史料で、よく見かける阿寺森林鉄道とトロッコの情景の写真がこの説明書に掲載されています。トロッコには枕木のような角材が載せられています。最近の史料では、明治40年のキャプションがついていたり、明治40年から豆トロ運材開始の解説と一緒に掲載されたりしていますが、実は明治34年の開業直後の写真だったのです。

 

説明書の要約

・木曽御料林地阿寺伐木所付近

 阿寺伐木事業所は、阿寺川沿岸に在り。官行伐木の際、吏員の宿泊用として建設せられたる小屋掛け。

・木曽御料林地阿寺伐木所鋸工場

 本鋸工場は、明治34年中木曽阿寺入御料林内に建設。山間僻地に生立する木材を水力にて製板し、本御料林内に敷設したる軽便鉄道により搬出。旧来廃物視せる木材利用が目的。

・木曽御料地阿寺森林鉄道の写真

 明治34年に於て、木曽阿寺入御料林内阿寺川に沿いて敷設せられ、軌道幅2尺延長3,850間にして一端は御料局製板場に起り一端は木曽川に達す。製板場に於て、製作せる白木材を搬出する主要機関なり。

 本鉄道は汽缶を用いず、其登渉するに当りては多少人力を要すと雖も、其下降するに当ては、専ら勾配を利用し自動運転せしめ、且運搬車は刃留の装置を付し自由に速力程度を増減するに便ならしむ。

・木曽御料地産野根板

 阿寺入に於て製作するものは既設軽便鉄道に由りて中仙道に搬出するの利便あり

 

 この説明では、丸太の搬出は書かれていませんが、明治34年に建設された鋸工場で製板された角材や板材を、まさに掲載写真のようにトロッコに積んで木曽川べりまでおろしたとなっています。しかも森林鉄道は主要機関です。米・塩・味噌を現場に運んでいただけではなかったのです。俄然調査欲が湧いてきました。

 

 ここに至るまででも、相当調べた(つもり)のですが、更に周辺情報を調べるために、様々な方のご協力も仰ぎながら史料探しを続けた処、以下の史料を見つけることができました。発行年の古い順に並べてみました。国立公文書館の史料は見るのは少し面倒ですが、それ以外は、図書館の端末か、自宅のネット環境で見ることのできるものばかりです。国立公文書館も検索だけなら自宅のネット環境で可能です。

 

明治28年5月発行 森林学 和田国次郎著 中村彌六校閲                              (国会図書館デジタル) 

明治29年12月発行 大日本山林会報第168号                                             (大日本山林会会誌検索)

明治36年7月発行 第5回内国勧業博覧会御料局出品説明書・宮内省御料局編 (国会図書館デジタル)

明治36年度調整  阿寺事業区面積簿/林値簿                                    (国立公文書館)

明治38年8月発行 大日本山林会報第273号から281号                               (大日本山林会会誌検索)

明治39年12月   訓令第41号 国有林事業予定案規程                                      (国会図書館デジタル)

明治40年7月発行 木曽山林学校公友会会報第7・8号                               (木曽山林学校アーカイブ)

明治41年1月発行 大日本山林会報第302号                                    (大日本山林会会誌検索)

明治41年5月発行 実用森林利用学下巻 大西鼎著                               (国会図書館デジタル)

明治42年3月発行 国有林事業予定案規程中造林第2部事業取扱手続             (国会図書館デジタル)

大正1年発行    岐蘇林友第35号                                       (木曽山林学校アーカイブ)

大正3年      阿寺事業区検訂施業案説明書/林値簿                         (国立公文書館)

大正8年11月発行 明治林業史要「森林土木事業 林道及河川」松波秀実著(国会図書館デジタル)

昭和4年4月発行  山林第557号「木曽御料林に於ける運材新施設」       (大日本山林会会誌検索)

昭和5年7月発行  御料林第16号「御料事業に伴う土木工事について」        (国会図書館デジタル)

昭和5年7月発行  御料林第26号「御料事業小史」全19回連載                       (国会図書館デジタル)

昭和5年7月発行  御料林第26号「木曽谷伐木の労働組織を回顧す」              (国会図書館デジタル)

昭和6年5月発行  御料林第35号「26年前ドイツ人の森林鉄道敷設に関する意見」 (国会図書館デジタル)

昭和10年発行    明治大正御料事業誌 和田国次郎著                        (国会図書館デジタル)

昭和14年発行    帝室林野局五十年史 帝室林野局編                        (国会図書館デジタル)

 

これらの史料から、明治34年前後の阿寺入御料林の阿寺森林鉄道のストーリーを紡いでみたいと思います。

 

阿寺森林鉄道敷設前(明治34年以前)

 維新政府による、版籍奉還と上知令によって、国が管理する官林(国有林)が生まれました。しかし、森林行政に素人の集まりですので、うまく活用できず、所有は国ですが管理は県に委ねていました。しかし、木曽地方は、最も早く明治9年に政府直轄管理になってから、阿寺の森は開発が進められました。明治22年に御料林に編入された後も、阿寺入アデライリ御料林として継続して開発されました。阿寺入とは阿寺川とか阿寺谷という意味です。

 当時は、主に木曽式伐木運材法によって伐木運材を行っていました。ごく一部の林学者の間では、木材価格は運材方法で決まる。だから、林道の整備・開削が非常に重要だ、との意見もありましたが、林道を開削すれば盗伐を助長するという意見などもあり、林道開削のための予算はまだまだ微々たるものでした。

 そんな中、明治29年に神奈川県津久井郡茨菰山ホオズキヤマ御料林で、日本で初めて伐木運材用の軌道を敷設されます。実施したのは、日本に初めて索道を伝えた中村弥六氏が社長を務める東京木材株式会社です。軌条は、木の角材の上面に鉄板を貼った、いわゆる木軌道で、総延長1,518間(2.760km)軌間は1尺5寸6分(473mm)です。現場監督は、木曽の老林家鈴木美睦氏でした。

 また、東紀州の尾鷲や海山地方でも、明治30年過ぎから、伐木場所から製材所に運材するために木軌道によるトロッコ運材が始まっていました。片岡督著「三重県の森林鉄道」に拠りますと、明治34年には、新聞記事に木軌道と製材所の記事が載っていて軌道の存在が確認されるとの事。また、製材所自体は明治30年前後に開業しているので、軌道はその頃まで遡ることが出来る可能性はありますが詳しいことは不明との事です。

この森林鉄道(軌道)開発への大きなうねりの中で、阿寺入御料林に森林鉄道(軌道)敷設の順番が巡ってきます。

 

中村彌六ファミリーの活躍

 ここで非常に重要なので中村彌六ファミリーの話をします。

 中村彌六氏は、明治32年3月に、文部省から日本で最初の林学博士号が5名(中村彌六1855生,志賀泰山1854生,本多静六1866生,川瀬善太郎1862年生,河合鈰太郎1865生 全員ドイツ留学経験者)に送られます。日本に初めて索道を紹介した方で、明治17年2月発行の大日本山林会報告第24号に「綱仕掛運材」として残っています。明治29年には、先の茨菰山御料林で日本初の森林鉄道(木軌道)を成功させています。じつは、官吏だけではにっちもさっちもいかず、木曽から14歳の時から半世紀にわたって林業に従事している老林家鈴木美睦氏を呼び寄せて何とか成功させたのが実情らしいですが。(林業回顧録 中村彌六著 昭和5年発行)

 そんな彼が直接・間接に育てたと思われるのが、河合鈰太郎カワイシタロウ氏、河合氏の門下生二宮英雄氏1875生?、そして和田国次郎氏1866生らです。茨菰山のレポートを書いたのは、学生を茨菰山に引率した河合鈰太郎氏です。ペンネームが琴山。台湾の阿里山森林鉄道の父と呼ばれ、現地に河合氏の記念碑が建てられています。明治36年から阿里山の調査を開始しています。私見ですが、規模は全く違うのですが、阿里山と茨菰山の地図が似ているように見えてしまいます。明治41年に「実用森林利用学」を校閲しています。其河合氏の門下生に二宮英雄氏がおられます。二宮氏は青森大林区署土木主任技師として、日本で最初の森林鉄道である津軽森林鉄道建設の陣頭指揮を執っています。津軽森林鉄道は明治42年に完成し、その後二宮氏は阿里山森林鉄道工事に従事し、明治45年客死されます。

 中村氏の門下生和田氏は明治28年に「森林学」を著し、明治32年に設計課長となり、明治38年に木曽支局長に就任し、御料林で初めての小川森林鉄道建設の礎を築きます。津軽・木曽・台湾。或いは御料林と国有林。場所や所属は違えど中村門下生たちは、森林の運材開発に邁進していたのです。

 明治40年10月に開催された大日本山林会第18回総会出席者名簿のトップ1行目に、中村彌六・河合鈰太郎・和田国次郎の名前があります。親分子分勢ぞろいです。二宮氏は津軽森林鉄道建設で出席どころではなかったのでしょう。総会後の林業視察では、木曽支局長和田国次郎氏が先頭をきって視察団を案内しています。

 林学博士5人組のことは「千葉演習林沿革史資料(6)松野先生記念碑と院学教育事始めの人々 根岸賢一郎ら著」に詳述があります。是非ご覧ください。

 

阿寺森林鉄道敷設

 上記のような大きな時代の流れの中で、阿寺森林鉄道が生まれます。明治25年には飛騨国益田郡小坂伐木所、明治28年には小川入御料林でも官行伐木が開始されます。木曽式運材法では、伐採地点から谷までは「修羅」「サデ」などで降ろし、谷から木曽川迄は「小谷狩り」(管流し)し、木曽川を「大川狩り」(筏流し)で下ります。

 当時の人夫の給料は米・塩・味噌の現物支給でした。そのため、丸太は流送しますが、給料(米など)は人肩で担ぎ上げていました。しかも、この給料で人夫達は山での暮らしを立てていましたので、米などの輸送は非常に重要なことでした。明治40年の森林視察の記録では、積載量=精米4斗入8俵(60×8=480kg)が標準と記されています。

 阿寺川本谷沿いに経路(歩道)が設けられていましたが、明治27年に2,076.5間(3.775km)の改修が行われました。そして、明治35年に行われる神宮式年遷宮造営材の一部搬出を好機として、上記経路の延長と改修を行い、延長3,850間(6.999km)・軌間2尺(610mm/呎の誤植?)・軌条12封(6kg)の軌道が敷設されました。起点は、悪沢ワルサワと北沢の間にある102班の鋸工場(御料局製板場・明治34年開業)から、終点は木曽川です。鋸工場は水力で丸鋸をまわし、当時は廃材とされるような白木の木材を角材や板材に加工してトロッコで木曽川べり迄運んでいました。

 ここまでで、米・塩・味噌(給料)の運搬が如何に重要であったか、しかも人肩による運搬で如何に過酷であったか、しかも、森林鉄道(軌道)が、丸太ではありませんが、鋸工場で生産される製材製品を運搬する主要機関であったことが判って頂けたと思います。

 従来の木曽式伐木運材法しか知らない、管流ししか知らない人夫達には、新しいトロッコ運材は脅威でした。トロッコが導入されたことで、賃金も現物支給ではなく、歩合の現金払いとなります。仕事も制度も新旧交代の嵐が吹き荒れ、他所からも人夫が流入します。小川森林鉄道などが、阿寺建設後すぐには開削されなかった理由の一つは、この新旧交代の嵐が収まるのに時間が必要だったからとも言われています。

 高野山では、明治19年頃から土倉庄三郎氏主導で、管流しと木馬道が発展します。木曽とは逆に、この初期に他所の人夫が活躍します。そして、地元民が徐々に仕事を覚え、取って代わっていきます。明治38年に軌道が開削された時も、木馬にレールがついたようなものなので、木曽式からトロッコのような大変革ではありませんでした。技術革新の流れや影響は、地域によってそれぞれの事情があるようです。

 

阿寺森林鉄道敷設後 大正頃まで

 少なくとも明治37年には軌道輸送費が小谷狩り費などとともに計上されていますので、数量は不明ですが、丸太をトロッコに載せて運搬していたと推定されます。

 明治39年から、阿寺口の民有地周辺で、軽便鉄道附属地、木材積置場敷地、官舎敷地などが買上げられ、阿寺事業区が本格的に拡充されていく様が見て取れます。

 森林鉄道(軌道)関係では、和田国次郎氏が、明治32年に御料局設計課長に就任します。明治34年に阿寺森林鉄道(軌道)が敷設され、明治35・36年に神宮式年遷宮造営材の一部伐出が行われ、明治38年の支局長会議で森林鉄道の建設が認められ、同年、森林鉄道普及に孤軍奮闘している和田氏が木曽支局長に就任します。明治39年には宮内大臣渡辺千秋氏が、木曽御料林視察を行い、小川・阿寺事業区を訪れ、同年開削したばかりの経路を辿り、その道筋は「千秋街道」と名付けられました。小川事業区の中根沢旧伐木会所から黒沢峠(北沢峠)を経由し、阿寺川本谷までの街道です。この大臣視察のために、中根沢旧伐木会所の貴賓室が作られたのでしょうか?。翌明治40年には、大日本山林会が長野で総会を開き、同じ道筋に250名の大視察団を送り込みます。この視察団の先頭に立って案内したのが和田支局長です。中根沢旧伐木会所では、小川森林鉄道の建設現場を視察し、千秋街道を小川事業区から阿寺事業区に移動し、阿寺伐木所から野尻まではトロッコに乗って移動しています。明治41年に野尻製材所が完成し、悪沢の鋸工場は廃止となります。また、同年野尻製材所に木材を供給するために、800尺の索道が設けられます。 大正3年に1,350間延長し189班に至り、合計約5900間となります。そして、大正4年に野尻製材所-野尻停車場間に軌間2呎6吋の軽便鉄道が敷設されます。この時に至っても、阿寺森林鉄道の軌間は2呎のままでした。2呎6吋に変更されるのは、大正12年に軌間2呎6吋の木曽川沿岸森林鉄道が、阿寺付近では木曽川右岸に敷設され、直接乗り入れ運転するために、ようやく軌間拡張が行われます。これで名実ともに森林鉄道となります。

 

 私の個人的推論ですが、この怒涛の壮大な流れは和田氏或いは森林鉄道(軌道)推進派(中村ファミリー)が描いた、絵巻物ではないでしょか。日本の森林行政の今後を憂い、仕掛けた森林鉄道(軌道)開発戯曲です。管轄は農商務省山林局ですが、高野山に明治38年、軌道を敷設され、明治39年に津軽森林鉄道の調査が始まったのも、この流れの一部だと思います。或いは農商務省と御料局の先陣争いだったかもしれません。でも現場の主役は、少なくとも御料林の関係者は中村彌六ファミリーです。

 いずれにせよ、日露戦争による物価高騰と、森林鉄道(軌道)開削の微妙なタイミングの差によって、小川森林鉄道の第一期工事は大正まで延期され、高野山と津軽は明治の時代に完成することになります。

 

御料林「御料事業小史」での阿寺森林鉄道の位置づけ

 ドイツ留学して、本場の森林鉄道を目の当たりにした和田国次郎氏にとって、理想とする森林鉄道は小川森林鉄道だと思います。最低でも軌間は2吋6吋、軌条は18封以上、機関車による牽引が必須条件です。この基準に照らすと、阿寺森林鉄道はどれも当てはまりません。ドイツで学んだ理想を追求する和田氏にとっては、阿寺森林鉄道は、軌間は610mmしかなく、角材或いは丸太を運んでいるにせよ、満足の出来る大量輸送は不可能でした。曰く「極めて不完全な軌道だったので、到底木材運搬に使用することを得なかった。」のです。しかしながら、森林鉄道(軌道)開発史から見ますと、茨菰山の軌間473mm、積荷重量600貫目(2.25t)の木軌道から、一気に阿寺の軌間610mmの鉄軌道にグレードアップし、高野山で初めて、軌間2呎6吋、軌条12封、積載量10尺〆のトロッコ運材となるのです。軌間2呎6吋鉄軌条に辿り着くまでに10年かかったのです。時代の最先端を目標にする和田氏の視点と、そこに向かって必死で努力している現場の視点の違いが、阿寺森林鉄道(軌道)の表現の大きな差になって表れていると思っています。

 ドイツ森林学視点を裏付ける史料として、明治38年発行大日本山林会報第273号から数号にわたって掲載される「明治37年林学科夏季修学旅行日記」があります。7月11~25日に軽井沢から松本・御嶽山・王滝・小川・阿寺、最後が白鳥という大修学旅行です。引率の指導教官の一人がアメリゴホーフマンというドイツ系の方です。日記は学生が書いているのですが、内容は指導教官の目線です。そこかしこに、森林資源を生かし切れていない思いが滲み出ています。特に運材については、当時、山奥過ぎて利用できていない王滝や、管流しするには厳しすぎる阿寺に、森林鉄道を敷設することでもっと活用できると訴えています。阿寺森林鉄道についても、表現する言葉は違いますが、内容は同じ意味です。一部抜粋します。

 現在鋸工場より大川口迄に敷設せる軽便鉄道の如きは森林鉄道として其価値甚少し。此鉄道は工事美に過ぎて強を欠く。・・・かくの如き工事は普通の鉄道に用うべきなり。・・・森林鉄道は安価にして堅牢なるを主眼とすべく装飾的の工事は無用なり。又橋梁の如きも構造弱きに過ぐ。森林にては木材は殆んど無代価なるを以て多くの木を用い非常に堅牢なる木橋を作るべし。

 やっぱり、森林資源利用先進国のドイツ森林学の目線だったんです。

 この視点の違いを看破している「木曽山林学校公友会会報第7号第8号 明治40年7月発行 27コマ」から抜粋しますと、「阿寺軽便鉄道布設当初の目的運材にあらず中途変更して今日に至る不合理の箇所ある元より之れ当然也」と、鋸工場の製材製品の輸送がそもそもの目的だったのに、伐木した原木の大量輸送が出来ないと言って非難されている阿寺軽便鉄道を思いやっています。

お願い

 文中に採用している建設年や延長などは、今回の調査で判明したものです。従来の説といろいろ異なっている部分がございますが、古い史料を遡って入手できた情報に基づいて記したものです。是非、最初に記した参考史料をご覧下さい。皆さんに検証して頂けるように、すべての参考史料の情報を掲載いたしました。逆に、更に新たな史料が発見されれば、この報告内容もがらりと変わってしまう可能性もあります。その時は、この報告の調査不足をお許しください。

 

付録

阿寺入御料林の施設と区割班

102班 旧製材所(鋸工場)

109班 鉱泉場

204班 伐木事務所

246班 旧官舎 苗園

250班 官舎・倉庫・木材置場

(倉庫 M33 1月土地買上 木材積置場 M39 8月買上 官舎 M40 2月買上)

251班 製材所(明治40年10月土地買上)