明治時代の高野山林道の姿を生き生きと写し取った写真たちです。

長野県長野市在住のI様のご厚意でここに公開することが出来ました。この場をお借りしまして、厚くお礼申し上げます。

キャプションの確からしさは不明です。全てが高野山関係かどうかは?ですが、背景から袋尻や神谷は確からしいと思います。

撮影年代についても、明治から大正にかけてと思われますが、正確には判りません。

唯一袋尻土場の写真だけは、写り込んでいる軌道から明治38年頃と推定されます。

写真の横の地図は撮影方向予想図です。矢印の方向を撮影していると考えています。

それでは、お楽しみください。

 

「高野九度山」

背景の松林と紀ノ川から「安田島の袋尻土場」と思われます。九度山側から安田島を写しています。

私の知る限りでは、現存するたった一枚の袋尻土場の写真です。右端に軌道が写っていますので、

明治38年頃の撮影と思われます。細い木から太いのまで不揃いです。如何にも天然木の伐採を匂わせます。

 

「神谷渡場」

中央右寄りの人物と比較すると、如何に巨木が組み上げられているか判ると思います。右上の松が下の写真の中央上の松と枝ぶりが似ていると思いませんか?

推定では、神谷土場の北側の斜面を写していると思われます。

 

「高野神谷」

神谷土場を下から見上げています。中央上の一番背の高い一本松は、今は無くなってしまったそうです。推定では、神谷土場の東斜面を写していると思われます。

右端の小屋に看板があるのですが、達筆で私には読めませんでした。小屋の後ろから、桟道が上に伸びています。

この土場は、平地ではなく、小山を二段又は三段に分けて土場としていました。松の木のすぐ下に小さく人が写っていますが、ここが一段目です。手前の子供が写っている処は三段目にあたります。

この付近は、現在は高野マキと杉に覆われています。

 

「高野神谷」

京大坂道から分岐し、更に池の峯に分岐する手前から南東方向に撮影したと思われます。右端は白藤小学校と思われます。

左下は木馬道です。中央の桟道は、現在のバイパスの上に築かれていて、当時は道路ではなかった可能性があります。このバイパス道路は下って登る構造になっていて、木馬を曳くのは大変だと想像していたのですが、移動が水平になるように桟橋にしていたとは意表を突かれました。

右の地図に撮影方向を緑矢印で示しています。

出典:地理院地図 電子国土webに赤矢印を追加/大正2年7月発行の地理院地図に緑矢印を追加

 

「高野旧事務所〇」

官行斫伐開始時に、椎出・神谷・花坂に事務所が置かれました。その後、椎出は入郷に移転します。これらの中から想像すると、この写真の事務所は神谷の事務所ではないかと思われますが、官行斫伐以前の写真の可能性も充分ありますので、撮影地について特定は難しいです。

 

「高野」

残念ながら場所は不明。木馬道です。

 

 

「高野」

左の写真の三叉路を見上げたのが右の写真。素晴らしい分岐点です。上の写真と共に、盤木の固定の仕方がよく判ります。

盤木の並べ方から見ると上から二本の道が合流して下に流れて行く感じでしょうか。残念ながら撮影地は不明です。

 

「高野」 運材方法のひとつである修羅です。左下の人物と比較すると、構築物の大きさがよく判ります。

 

「高野林道」

中央の橋げたに「明治三十四年奉架」とあります。明治30年頃に大門浦付近と塵無付近の立木払下げ事業が終了して、木馬道が村に寄付されます。その頃から、明治35年の下戻し裁判開始までの間、高野山官林がどのように開発されていたのか史料が見つかっていません。明治30年から35年は造林(植林)もされていないようです。この写真がキャプション通りなら、林道建設が実施されていた証拠写真になります。明治34年といえば、高野口駅開業の年なのですが何に捧げたのでしょうか。