「その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました.天真爛漫な稚児の様に,美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は,真に自然の寵児,なんという幸福な人だちであったでしょう」。

 知里幸恵はアイヌ神謡集の冒頭で、アイヌの暮らした北海道の幸せを語った。その上で「世は限りなく進展してゆく.激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも,いつかは,二人三人でも強いものが出て来たら,進みゆく世と歩をならべる日も,やがては来ましょう」とアイヌの文化未来と幸恵の思想を文字に固めている。

「いつか現れる強いもの」の糧になる神謡を文字として残す。「アイヌに生れアイヌ語の中に生いたった私は,雨の宵,雪の夜,暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました.」と19歳の幸恵が書き残すと同時に一生を終えた。

 この書の最初の神謡はフクロウの神が、自分のしたことを謡うもの。没落しても誇りを失わない家のアイヌの子が放つ矢を受け止めるフクロウの神。彼の許に落ちて、その肉体を彼の家に届けさせる。家人たちの感謝の祈りを受けたフクロウの神はその夜、肉体を離れて家中を飛び回り、この家を再び栄えさせ、また周囲からの尊敬を集める家族とした。そして、アイヌがフクロウの神を大切にしてくれるので、自分はその家族、村を大切に守り続けるという話だ。

 幸恵が愛したこの物語に彼女が感じていたものは何か。アイヌ自身が自らを信じて強くなれば、差別を受けないという非常に強い彼女の意志を感じ取ることができる。


青空文庫

アイヌ神謡集

知里幸惠編訳

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