糸田の猿神社跡の小祠【南方熊楠顕彰会】猿神社(日吉神社、山王権現)は高山寺のふもとにある小祠。
明治末期稲成の稲荷神社に合祀された。
この神社林伐採が、南方熊楠の神社合祀反対運動開始のきっかけとなった。

熊楠は、1909(明治42)年から、当時紀南で進行していた神社合祀政策に反対する活動を始めた。
動機の一つに、ひんぱんに訪れて変形菌(粘菌)を採集していた神社が合祀・廃社となり、神社林が伐採されるという事件があった。
稲成村糸田(現・田辺市)の猿神社で、場所は高山寺の南麓にあった。社域は41坪のつつましい神社だが、うっそうとした木立におおわれており、熊楠は徒歩圏内のこの神社林で多数の変形菌(粘菌)を採集していた。
熊楠の採集標本のうち、アーサー・リスターによってはじめて新種として記載報告されたのが、アルキリア・グラウカ(アオウツボホコリ)で、熊楠は1906(明治39)年12月23日に、この標本を含む多数の標本をリスターへ宛てて送り、アーサーは1907(明治40)年3月19日付の返信でこの新種に命名したことを伝えてきた。
ところが、そのアーサーの手紙が熊楠に届く直前の4月1日、この猿神社が近隣の稲荷神社へ合祀・廃社されることが決定した。熊楠はこのことを10月22日付のリスター宛て書簡で述べ、「私たちに多数の粘菌標本を授けてくれたサルの神様がキツネの神様の所へ移されました。この景色はやがて損なわれるでしょう。二度とアルキリアを採集出来る望みはありません」と記した。現実に、この猿神社の神社林はのちに完全に伐採された。1909(明治42)年2月19日付グリエルマ・リスター(アーサーの娘)宛書簡に熊楠は、そのことを落胆とともに記している。
熊楠が、神社合祀に反対した「世界的学者として知られる南方熊楠君は、如何に公園売却事件をみたるか」を牟婁新報に発表したのは、その年の9月27日のことである。

Arcyria glauca Lister (アオウツボホコリ)
【南方熊楠顕彰館】
Arcyria glauca Lister (アオウツボホコリ)
  熊楠の採集標本のうち、全世界で未知だった新種としてリスター父娘が最初に報告したのが、アオウツボホコリである(新変種としてはキモジホコリが最初)。1907年3月19日付書簡[来簡の中でアーサーは、その青さびた(グラウカ)色が特徴的な標本について、「私たちの間での呼称として、新種Arcyria glaucaと名付けておこう」と記し、結局それが記載報告の際の命名となった。アーサー没後の1909年10月1日、グリエルマは高山寺五重塔の絵ハガキをもらった礼状ハガキの中で、『粘菌モノグラフ』改訂版のためのこの新種の彩色図版の色校正が満足な出来だったことを伝えてきた。