富里に生き、明治という時代を駆け抜けた一頭の「駿馬」の物語です。

駿馬鎌倉埋骨之碑(富里市指定文化財「駿馬鎌倉の碑」)

現在、鎌倉の功績を伝えるものは久能藤崎家に残された碑があるのみです。この碑は篆書体で鎌倉の業績を記したものであり、現代語に訳すると以下のように記されています。

「駿馬鎌倉を憐れむ、古堂逸人選、静斎主人書井篆額、藤崎氏の愛馬鎌倉は、類まれな馬相と頑健な骨格をもった真っ黒な馬で、そのいななく声は雷鳴のようであった。この馬は鎌倉の伯楽(馬の売買仲介人)が奥州七戸で入手し、ある外国人に売ったが、藤崎氏はその素質を見抜き多額の謝礼を払って譲り受けた。その時、仲介した伯楽の願いを入れ鎌倉と名付けたが、当時四歳であった。そのころ、西洋文明の移入に熱心だった日本の高官や豪族の間では、良馬を求め勝敗を争う風潮が高まってきていた。なかでも一番盛んであった競馬会が東京と横浜であった。明治十四年春、藤崎氏は鎌倉を横濱競馬会に出した。鎌倉はあまり一目をひかなかったが、突風のごとく走って全く他馬を寄せつけず、見ている人々の目を見張らせた。それから二年、藤崎氏と鎌倉は三十五回のレースに出走し、記録的な勝利をあげた。こうなると鎌倉の評判は、遠近を問わず外国までもその名声は轟き、藤崎氏に巨額の値で譲渡を申し込む人もいたが、鎌倉との絆は固く藤崎氏はこれを固辞し続けた。明治十六年七月六日、鎌倉は突然の病に襲われ、水も飲まず、まぐさも拒む重症になった。藤崎氏は驚き、医師を招き百方治療を尽くしたが、鎌倉はわずか七歳でその命を絶ってしまった。氏の哀悼は止まらず、遺体をここ印旛郡七栄獅子穴の地に葬ったのである。日本では古来駿馬を賛えるとき、「いけづき」「するすみ」の名をあげるが、鎌倉が当時生まれていればその功は「いけづき」を凌いだであろう。しかし、現実は四海太平で戦いもなく、その技を戦場で発揮できなかったこともやむを得ない。藤崎氏の名は忠貞、久能村の豪民である」

駿馬鎌倉の碑   同碑「駿馬鎌倉埋骨之碑」   碑文拓本   明治17年 根岸競馬場第二鎌倉出走表

鎌倉の姿

鎌倉の姿は伝えられるところによると、青毛で体高は4尺5寸7分(約138.5㎝)の南部馬であったされています。青毛とは濃い青色を帯びた黒色を差しており、全身真っ黒の最も黒い毛色です。季節により毛先が褐色を帯び青鹿毛に近くなることもあります。個体数が比較的少ない毛色でサラブレッドでの出現頻度は1%以下、白毛、月毛等を除けば最も少数派とされる色です。

この鎌倉を所有したのは現在の久能地区に居を構えた藤崎忠貞(ちゅうてい)氏で、裕福な酒造業者でした。彼は内務省勧農局下総種畜場(後の下総御料牧場)に勤務した経験の持ち主でもありました。明治政府の行った佐倉牧調査の際にも同行したことのある人物で、元々馬に縁があり、競馬と結びついていった人物と考えられます。また、鎌倉亡き後、藤崎氏は次の持ち馬に第二鎌倉という名をつけ、さらに呼子、八橋、上野など馬を所有し、明治十九年頃までそれらの馬の名前が競馬界に登場しています。しかし、呼子が九勝以上をあげて活躍をしたものの、鎌倉の成績には遠く及びませんでした。

日本最後の南部馬「盛号」 鎌倉もこんな姿だったのか。

鎌倉の戦績

鎌倉の戦績については、これまで横浜根岸競馬記念公園(馬の博物館)に残されていたものが唯一のものでしたが、富山大学の立川健治教授の研究により、様々な資料が集められ、『競馬の社会史1 文明開化に馬券は舞う 日本競馬の誕生』という書物としてまとめ上げられました。以下は立川氏が『文明開化に馬券は舞う』を要約し、HP上に記した鎌倉に関する記述を引用したものです。なお、部分的に加減筆を加えています。

失われてしまった馬たち(鎌 倉)

1879(明治12)年11月の共同競馬会社(戸山競馬場)の開催を機に、競馬は新たな段階に入り、明治政府の馬事振興策の中心を占めるようになっていく。翌年5月からは、三田興農競馬会社(三田競馬場)が開催を始めただけでなく、吹上御苑馬場でも、陸軍将校や宮内省の官吏、あるいは華族の競馬会が、定期的に開催されるようになった。また、1870(明治3)年から開始されていた陸軍主催の春秋二回の招魂社(靖国神社)競馬が、そこに加わる形ともなっていた。靖国や吹上は、戸山や三田の競馬の能力検査的意味をもち、さらにこの日本側の競馬で活躍した馬は、横浜のニッポン・レース・クラブ(根岸競馬場)の開催にも登場していく。なお1882年までは、居留民名義の馬は、日本側主催の競馬開催には出走できなかった。日本側名義の在来の日本馬が初めて根岸競馬場に姿を現したのは、1875(明治8)年秋。だがしばらくは、居留民が所有している馬にほとんど勝つことができなかった。育成、調教、騎乗技術が劣っていたことが、その大きな要因だった。この状況が、1881(明治 14 年)春のシーズン頃から、新たな馬たちの登場によって変わろうとする。

まず、鎌倉だった。雷(イカズチ)、岩川、勝鯨波(カチドキ)といったライバルたちと戦い、時には負けることもあったが、明治10年代半ばの競馬における日本馬の主役となる。鎌倉は、青毛、4尺5寸7分(約138.5cm)、南部産。名義は、藤崎忠貞。藤崎は、千葉県印旛郡九能村の裕福な酒造業者で、内務省勧農局下総種畜場(後の下総御料牧場)に勤務したことがあった。5歳の1881(明治14年)春のシーズンに根岸競馬場でデビューし、下総種畜場の吉川勝江が騎手を務める。なお、当時の馬齢は満年齢だった。鎌倉は、1883(明治16)年8月3日に、残念なことに急死する。藤崎は、その蹄跡を後世に残すために、千葉県富里町に石碑を建て、鎌倉の死を悼んだ。この石碑は現存している。

鎌倉の評判はデビュー前から高かった

初出走となった1881(明治14)年5月のニッポン・レース・クラブの春季開催は、それに応えるものとなる。まず、根幹レースであった初日・新馬戦を楽勝し、ついで二日目のレースでも、直線を一気に駆け抜けて、かなりの好タイムで勝った。三日目の日本馬のチャ ンピオン戦では、居留民所有の強豪馬から1馬身半差の2着に終わるが、気難しさを見せながらも追い込んだ姿は、強烈な印象を与える。居留民たちは、この鎌倉の出現を日本馬の改良の証とし、今後はチャンピオンとして、確実に横浜の旧勢力を凌駕していくものと見込んだほどだった。

根岸に続く、戸山、三田の開催では、居留民の馬が出走してこなければ、鎌倉の相手はなく、それぞれ2勝、3勝を加える。足元の故障から、1880年秋のシーズンを休んでいた古豪の雷も、この二場で計5勝をあげ、復活していた。雷は、黒鹿毛、4尺7寸3分(約143.3cm)、南部産、宮内省御厩課の所有。戸山競馬場では、1879年8月に行われたグラント前アメリ大統領歓待競馬や、同年12月と翌年4月の共同競馬会社の開催でも勝利を重ねる。当時の競走馬は、宮内省御厩課、内務省勧農局(この1881年4月からは農商務省)、陸軍省軍馬局が供給源で、雷は御厩課の代表馬だった。
 

1881年(明治14年)秋のシーズン

11月の根岸では、鎌倉と雷の両馬は居留民の馬に負け、雷が3戦1勝、鎌倉は4戦1勝に終わった。両馬がともに出走したチャンピオン戦を含め、3戦での着順は雷が鎌倉を上回っていたから、芝では雷の方が適性があったようである。 鎌倉は、期待を裏切る形となった。 根岸から2週間後に行われた戸山の開催でも、鎌倉と雷の強さが抜けていた。鎌倉は二日間のレースで、雷との直接対決の3戦をも含めて、5戦5勝の戦績を収め、雷は4戦1勝だったものの、残りは総て鎌倉の2着だった。 それまでの雷は、戸山競馬場を得意としていたから、ここでの完敗は、土のコースでの鎌倉の強さを印象づけた。それから1週間後の三田の開催では、鎌倉は初日2勝、三日目はチャンピオン戦や重いトップハンデを科せられたレースも含めて3戦して3勝し、土のコースの戸山と三田では、無敵を誇る存在となった。雷は、鎌倉との対戦を避けたが、それでも二日目に1勝をあげたのみにとどまる。その後左足を故障して、再起できなかったから、この開催が、最後の出走となった。
 

1882年(明治15年)春のシーズン

鎌倉は体調を崩し、5月の根岸の春季開催には姿を見せなかった。それから3週間後の戸山の開催には出走してきたが、よほどの不調で、2戦とも2着に終わり、生涯唯一の未勝利に終わる開催となった。 一方、前年の秋シーズンに名を出していた岩川は、この開催で2勝し、鎌倉のライバルとして名乗りをあげる。戸山から2週間後には、三田の6月開催が行われ、早速、初日の第3レース、農商務省農務局賞典で、鎌倉と岩川は、カタフェルト Caterfelto という馬を加えて、接戦を展開する。 カタフェルトは短距離が得意な、いわば名脇役の馬で、当時の有力馬主、馬車製造業の大西富五郎名義の馬だった。このレースの描写がつぎのように残されている。

「孰(いず)れも一粒撰の駿馬にてありければ、観客は、此れこそ今日の晴れ勝負、如何あらんと瞳を凝らして見てあるに、三馬は流石に競馬馴れしことなれ ば、少もわろびれたる模様なく、指令と共に駈け出せしが、如何なしけん、岩川は一歩後れて駈け始めたれば、アナヤと思う間に、馬場の三分程に至りし時は、 鎌倉が真先に立ち、カタフェルト之れに次ぎ、岩川又た之れに次ぎて、両馬に後れたる四間余もありしにぞ。人々は、第一こそ鎌倉にて、第二がカタフェルトと 憶断して、殆んど両馬にのみ目を注ぎ、岩川は恰かも無きもの同然なりければ、予て岩川を愛する人は歯がみをなして悔みし程に、岩川の乗手は、コハ仕損じたり適わじと、術を尽して励ましければ、其勢以前に変りて次第に烈しく、砂煙を蹴立てて飛び行く様は、射る矢も及ばぬ程にして、早や馬場の六分に達せしと思 う頃、終に難なくカタフェルトを乗越したれば、観客は意外に出てたることなれば、誰れとて驚かざるはなく、喝采の声四方に湧きたり。扨も岩川は一頭を乗越 したるに勢付き、今ま一馬だに打越さば、最早我こそ第一なれと、乗手が一心に駈りたれば、双馬均しく竝びし頃、早くも勝負の場となりたりし。曳と一気を得 て打ち入たる鞭に、岩川は遂に鎌倉をも乗越して、天晴れ第一の勝を得て、万敗の内に全利を占めたるし。最とど勇ましく覚えたり。去れば岩川も農務局より賞 金を受けたりし。」
                                                                                                                (『東京横浜毎日新聞』明治15年6月11日)
鎌倉は、次の第4レースの宮内省賞典では勝ち、ついで二日目のチャンピオン戦で岩川との再戦を迎える。今度は鎌倉が出遅れたが、その不利をものともせず岩川を破り、きっちりと雪辱を果たす。不調の中で2勝をあげたのは、さすがとはいえ、鎌倉としては物足りない成績であった。しかしつぎの秋のシーズンでは、根岸でもデビュー時の期待に応える圧倒的な強さを見せることになる。

1882年秋のシーズン

当時、春秋のシーズンは、それぞれ5月初旬、11月初旬から始められ、2週間前後の間隔で、ニッポン・レース・クラブ(横浜・根岸競馬場)、共同競馬会社(戸山競馬場)、三田興農競馬会社(三田競馬場)の順序で開催されるのが常だった。まずニッポン・レース・クラブの開催。鎌倉は、初日、二日目と3戦1勝だったが、一番手という高い評価は変わらず、三日目の日本馬のチャンピオン戦を本命で迎えていた。
ここには、二日目に鎌倉を下していた勝鯨波(かちどき)という馬が出走していた。勝鯨波は、陸軍省軍馬局の相良長発中佐の名義、青毛。デビューは、前年 の1881年秋のシーズン。騎手も軍馬局の根村市利。相良は軍馬局の競馬関係者の中核で、根村は多くの勝鞍をあげていた。他には、1881~2年にかけての横浜の日本馬のチャンピオンだったアナンデール Annadale も出走。オーナーは、ケスウィック J.J.Keswick 。当時の東アジアの大商社であるジャーディンマセンソン Jardine,Matheon & Co.の横浜支配人で、大厩舎を構えていた人物であった。このチャンピオン戦、鎌倉は、直線で楽々と抜け出して優勝した。レースは、アナンデールがまず先行したものの、道中で大きく後退、直線で盛り返したが2着、勝鯨波は直線でバカついてしまっていた。鎌倉、初のチャンピオンカップの獲得であった。

この勢いで鎌倉は、中国馬との混合の開催チャンピオン決定戦に、ただ1頭の日本馬として臨み、2、3着の中国馬より1~2ポンド重いハンデを背負ってはいたが、楽々とこのレースも制した。中国馬を破ることは、この時代でも、日本馬の強豪馬の証ではあったが、鎌倉クラスになると、中国馬を問題としなくなり始めていた。つぎの共同競馬会社の開催では、根岸のチャンピオンの鎌倉に、注目も人気も集まり、賭けでも当然ながら本命にとなる。初日には、鎌倉、岩川(前回参照)、勝鯨波らが出走するレースが行われる。岩川と勝鯨波は、鎌倉への挑戦者と認められる存在になっていたから、観客たち は、固唾を呑んで見守っていた。レースは、その期待に違わないものとなり、鎌倉と勝鯨波が、ほぼ同時にゴールに入線するほどの熱戦となった。一旦は、勝鯨 波の勝ちとの判定が下されたが、鎌倉側が異議を唱え、審議の結果、両馬のデッドヒート(同着)となった。
その後、決定戦のマッチ・レースが行われ、今度も接戦となったが、鎌倉がクビ差で勝った。このレース中、観客は、手を叩き、声を揚げ、また贔屓の馬の名前をそれぞれ叫ぶなど、熱狂したという。ある横浜の居留民が、片手に帽子を持って、「鎌倉、鎌倉」と叫んで、我を忘れて馬場を駆け回っていた姿も記録されている。強い馬に、巧い騎手が乗っての熱戦、これに賭けが加わっていたのであるから、当時の競馬も、相当の興奮を伴っていたのも当然だった。翌日のチャンピオン決定戦も、鎌倉、勝鯨波、岩川らの対戦となった。前日勝った鎌倉は、7ポンド増量で出てくる。レースは7分あたりから、鎌倉と勝鯨波が抜け出して2頭の争いとなったが、ここ一番のレースでは鎌倉が本領を発揮して、勝鯨波を寄せ付けない格好となった。勝鯨波が2着、岩川は着外だった。このレース、勝鯨波の騎手が、鎌倉の吉川勝江の鞭の使用法に異議を唱えたが、却下されている。日本の競馬は、その始まりから、ニューマーケット・ルールに準拠した規則を備えており、このような異議の申出は珍しいことではなかった。

この二日目、再び、鎌倉、岩川、勝鯨波が対戦している。賭けは当然、鎌倉が本命、オッズは2倍だった。だが今度は、9分あたりから抜け出した勝鯨波が勝ち、鎌倉は1/2馬身差の2着、岩川は3着。チャンピオン戦の後だったことで、鎌倉が気を抜いたのだろうが、勝鯨波も力をつけていたことは確かだった。岩川は、この開催、未勝利に終わる。この後の三田の開催には、鎌倉、岩川、勝鯨波の3頭は出走しなかった。

1883(明治16年)春のシーズン

成長をみせた岩川が、鎌倉、勝鯨波の間に割って入った格好で、レースが繰り広げられる。すでに居留民所有の日本馬では、この3頭に勝てなくなっていた。まず5月の根岸の開催。初日のレースでは、岩川が勝ち、鎌倉が2着、3着が勝鯨波。二日目、今度は、鎌倉が楽勝し、岩川を2着に、勝鯨波を3着に下していた。三日目の日本馬の チャンピオン戦には、岩川、勝鯨波の2頭が出走してこなかったから、鎌倉が20馬身差という大楽勝劇を演じる。開催勝馬による中国馬との混合戦には、鎌倉と岩川が出走し、残りの5頭は中国馬で、事実上のチャンピオン戦となる。鎌倉と岩川は、中国馬を相手にしなかった。レースは、鎌倉がまずハナを切り、半マイル地点で、今度は岩川が先頭に立とうとしたが、鎌倉も譲らなかった。そのまま直線に入って、2頭の叩き合いがゴールまで続いた。判定は同着。2頭の決定戦も、再び接戦となったが、ここでは岩川がアタマ差で勝ったと判定される。だが、鎌倉が日本馬のチャンピオンであることは、衆目の一致するところであった。根岸から2週間後の戸山の開催。ここから共同競馬会社の開催は、三日間となっていた。

初日に、鎌倉、岩川、勝鯨波の3頭は対決し、鎌倉がまず先行、勝鯨波が鎌倉に並び掛け、直線では2頭の追い比べとなる。最後は、勝鯨波が1/2馬身差で鎌倉を下し、岩川は 3 着となる。鎌倉、岩川は、初日のその後のレースにも出走してきたが、直接顔を合わせなければ、他馬を寄せ付けずに、それぞれ勝鞍をあげていた。翌日のチャンピオンレース、三菱会社賞典(300円)には当然、鎌倉、岩川、勝鯨波の3頭が出走するが、本気で臨めば鎌倉の強さが断然で、2着岩川、3着勝鯨波だった。この二日目、鎌倉はもう1勝を加えている。

三日目、鎌倉は短距離戦でさらに1勝を加えた後、岩川、勝鯨波とのレースに臨んだ。ここでは、勝鯨波が残り400mで先頭にたち、直線に入ったが、鎌倉が一気に追い込んで勝った。その様子は、「疾風の如く一層の速力を増す」ような凄さだったという。この直後の三田の開催でも鎌倉は、二日目の宮内省賞典とチャンピオンレースの三菱会社賞盃(300円)に勝ち、2勝を加える。
1883年春のシーズンの鎌倉の戦績は、根岸で4戦2勝、戸山で6戦5勝、三田では2戦2勝、計12戦9勝で、しかも3場のチャンピオンレースの総てに 勝っていた。トップが鎌倉、差がある2位、3位が岩川、勝鯨波というのが、このシーズンでの3馬の力関係だった。鎌倉は、ますます強さを加えようとしていた。まだ7歳、当時の日本馬の競走馬としては、これから円熟期に入るのが常だった。この年の6月、共同競馬会社が、戸山から上野・不忍池への競馬場移転を決定するなど、競馬は新たな段階を迎えようとしていた。鎌倉は、その時代にふさわしいスターとなるはずだった。だが残念なことにそれもかなわぬ夢となる。

1883年の春のシーズンが終わった7月6日、鎌倉は突然病に襲われ、8月3日に死亡してしまったからである。生涯成績は、判明分で48戦32勝。獲得賞金は2万円にも及んだという記録もあるが、私の計算では5,000円ほどとなる。その他、天皇や皇族からの「下賜品」も獲得していた。馬主の藤崎忠貞は、その死を深く悼んで、墓碑を千葉県富里村に建てたが、現在もそれが残されている。その碑文には、大要つぎのように記されている。
「鎌倉は、まず一伯楽が奥州七戸で入手、ついである外国人に売ったが、4歳の時、藤崎がその素質を見抜いて多額な謝礼で譲り受け、5歳、明治14(1881)年、根岸の春季開催にデビュー、35回出走して記録的な勝利をあげた。巨額の値で譲渡を申し込まれても、藤崎は固辞を続けた。明治17年7月6日突然の病に襲われ、医師の百方手を尽くした治療も効を奏さず死亡した。」

 後世には忘れ去られてしまったとはいえ、このような墓碑に示されているように、鎌倉は、少なくとも鹿鳴館時代には、名馬として語り継がれようとしていた馬だった。
 

公益財団法人 馬事文化財団