天正(てんしょう)十八年(1590)、豊臣秀吉の命により徳川家康は関東二百四十万石の領主として江戸城に入りました。当時の城は、室町時代の武将太田道灌(おおたどうかん)が築いた城塞(じょうさい)を、後北条氏(ごほうじょうし)が整備しただけの粗末なものでした。慶長(けいちょう)八年 (1603)、関ヶ原の戦いを経て征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になった家康は、江戸に幕府を開き、町の整備とあわせて以後三代にわたる城の普請(ふしん)に乗り出します。 

 家康入城のころから、この付近の河岸には多くの材木石材が相模国(さがみのくに)(現在の神奈川県)から運び込まれ、鎌倉から来た材木商たちが築城に使う建築部材を取り仕切っていました。そのため荷揚げ場が「鎌倉河岸(かまくらがし)」と呼ばれ、それに隣接する町が鎌倉町と名付けられたといいます。明暦(めいれき)三年(1657)の『新添江戸之図(しんてんえどのず)』には、すでに「かまくら丁」の名が記載されています。