ここはかつて金澤町(かなざわちょう)と呼ばれていました。町名の由来は、江戸時代の初めころにさかのぼります。江戸の大半を焼き尽くした明暦(めいれき)三年(1657)の大火(振袖(ふりそで)火事)を機に、幕府は江戸の都市計画を見直します。 

 その政策のひとつとして打ち出されたのが、大名に、屋敷を上屋敷(かみやしき)・中屋敷(なかやしき)・下屋敷(しもやしき)に分けさせるというものでした。上屋敷とは大名の公邸で、藩主とその妻が生活する屋敷のことです。また、中屋敷は跡継ぎや前藩主の屋敷、下屋敷は別荘などとして使われていた屋敷を指します。