高子沼を楽しむ会 会長 佐藤忠夫さん

楽しい公民の先生

高校の社会の先生だったので県内をたくさん回ったけど、母校の保原高校に赴任することがなかった。東北大の文学部哲学科社会学専攻したので、「社会の免許が取れた」親の近くにいないとと思い、県内の公務員になろうと思った。当時「公民」を教えた。今で言えば現代社会だ。

できるだけ作業をしてもらう先生だった。例えば地域の人口増減の資料を与えて、福島県内の自治体の人口減少率で色分けをする。高校一年生。まだ受験勉強に煽られていない時に、じっくり自分で作業して分析して、考えることを楽しんで欲しかったという。当時は自衛隊が違憲か合憲かという議論のあった時代だったので「日本の防衛の問題を考える」という国会が議論していることを自分でも考えてみるとう教室と外をつなげる努力もしていた。

「生徒は、結構気楽にやってくれたのでは。1年生ということもあってね」

「私はね、会津、郡山、いわき、相馬と回ったのだけど、ついぞ、地元には戻ってこれなかったんです」

 

退職してから、この地元が先生

二十境と漢詩について地元のオジマさん。東北芸術大の小林先生、歩きながら、歴史の勉強して発信をしななしと教えてくれた。市役所の文化課地元のマクタさんにも教えてもらって勉強したと言います。「先輩たちがいらっしゃらなかったら、こんなに勉強できていないと思います」と。

 

役所と一緒にやらないと

二十境のコースの樹が枯れていることがある。できる限り自分たちで伐採できないかと思う。草刈なんかはやっているのだけど、伐採となると、地権者との調整や安全のため業者を雇わないとならない。役所と一緒にやらないといけない。

 

故郷はこの辺り先輩たちにたくさん教わった

産まれは母の実家、石川県。父は伊達。保原に住み着いた。父は経理専門。金沢の軍事向上で経理担当。終戦で戻ってきた。保原の企業の経理を担当。佐藤さんは東北大学。仙台で下宿。高校の社会の教員。地元に戻ってくるとなると、公務員とかしかない、と思って教員に。長男なので、戻って来ないとな、という意識があった。4歳か5歳。物心ついたときはこっち。福井地震の記憶は残ってる。電信柱につかまって揺れた。最初は、もっと街中。缶けり、集落全体でかくれんぼ。10人ぐらい。部活は運動系ではなかった。保原小学校、保原中学校、保原高校。保原から東北大は3人。福大は10何人。今の世代は福島の高校に行ってしまう。

 

昭和19年産まれ。大学終わったのが、昭和45年。教員試験に合格して、福島県内を転々とした。退職して戻ってきてはじめて、地域との関わりをするようになった。高子中年同志団に入っていた。お祭りの山車を引く集まり。総会と忘年会には出ていた。祭りで、地域と繋がっていた。教育長をやられた方(オジマさん)が、高子二十系の歴史を調べてくれていた。我々に聞かせた上で宴会していた。語り継いでくれていた。退職した後、資料をくれた。現代訳をつくったり、熊阪覇陵物語をつくったり。県の助成を受けたとき、景観形成アドバイザー、東北芸術大学の先生が歴史を調べて見えるように、歩けるようにというアドバイスをいただいた。