和宮 親子(かずのみや ちかこ、1846年 - 1877年)
経歴
(推定1846・弘化3年)仁孝天皇の第8皇女として生まれる(1)。
文久元年(1861)、徳川幕府の懇望により、第14代将軍・徳川家茂と結婚(1)。
4年余り後(慶応2・1866)、家茂が第2次長州征伐の陣中で陣没(1)。
2年後(明治元・1868)、戊辰戦争・明治維新では、婚家である徳川家の存続のために尽力(1)。
1877年(明治10)、脚気を患い、侍医の勧めで同年8月7日に東京を発ち、塔ノ沢温泉の旅館「元湯」(環翠楼)で療養(1)。一時は容態がかなり回復し、歌会を開いたり、村の子供たちを招いたりした(1)。
同年8月末、病状が急変し、翌9月2日に脚気衝心(脚気による心臓発作)のため死去、享年32(1)。
遺骸は同月6日早朝に塔之沢を発ち、東京・麻布の御殿(麻布御殿)に安置された後、遺言により芝・増上寺の夫・家茂の墓の隣に葬られた(1)。法号「静寛院宮二品内親王好誉和順貞恭大姉」(1)。
1883年(明治16)に旅館「元湯」と塔之沢・阿弥陀寺(芝・増上寺の末寺)で7回忌の法要が営まれた(1)。このとき、阿弥陀寺は増上寺の別院とされ、増上寺から阿弥陀寺へ、和宮が夫・家茂の戦勝を祈願していたという「黒本尊御代仏」が贈られた(1)。
参考資料
- 加藤利之「皇女和宮終焉」播摩晃一ほか編『図説 小田原・足柄の歴史 下巻』郷土出版社、1994、14-15頁