ここでは、清岸寺 について紹介します。

在所:牧野阪二丁目14-7

【ポイント】

①.宗派:融通念仏宗

②.総本山:大念仏寺

 大念仏寺は、坂上田村麻呂の次男で、平安時代にこの地域を開発したといわれる「平野殿」こと坂上広野の私邸内に建てられた修楽寺が前身と伝わる。

③.融通念仏宗は、平安末期に開祖された宗教で鎌倉時代に良忍上人によって宗派を構成。

④.中興の祖である円覚上人による大念仏狂言が有名な壬生(ニブ)寺にわる。

【関連写真】

​ 山門2014_01_01 金只  門前の標石2014_01_01 金只  

​ 本堂2014_01_01 金只  

【補足説明】

①.片埜神社の宮寺であったと云われるが詳細は不明。

②.片埜神社拝殿の前に寺院のものと思われる梵字の刻印が入った石灯籠が現存する。

③.融通念仏宗総本山の大念仏寺は、大治2年(1127年)に鳥羽上皇の勅願により、宗祖良忍が開創した。坂上田村麻呂の次男で、平安時代にこの地域を開発したと云われる「平野殿」こと坂上広野の私邸内に建てられた修楽寺が前身と伝わる。日本最初の念仏道場である

④.教義は、『華厳経』・『法華経』を正依とし、『仏説無量寿経』・『仏説観無量寿経』・『仏説阿弥陀経』の「浄土三部経」を傍依として、「1人の念仏が万人の念仏に通じる」という立場から、口称の念仏で浄土に生まれると説く。

⑤.良忍が始めた融通念仏宗は、当初は勧進行脚が主で、仏教宗派としての組織を持たず集団運動の中から発展したものであった。大阪の平野の大念仏寺を始め、京都の清凉寺や壬生寺などで融通念仏が盛んになり、壬生寺や清凉寺、千本閻魔堂、神泉苑には融通念仏の中興者である円覚上人による大念仏狂言が伝えられている。

 寿永元年(1182)に第6世良鎮が没すると、元亨元年(1321)まで139年間法統が途絶えたが、第7世法明によって中興された。法明は宗門の中断中に石清水八幡宮に預けられていた宗の法宝物を再び受け取り、大念仏寺住職を選出する六別時制度を定めたとされる。

 ※ この宝物の受け取りの途中での逸話が「本尊掛松」史跡。

 戦国時代の頃から宗派としての色合いを帯びはじめたが、大念仏寺の法統が何度も絶え、融通念仏の寺も他宗派の寺院となり勢いは振るわなかった。元禄年間(1688~1703)に、融通念仏再興の祖とされる大念仏寺第46世の大通が融通念仏の復興に努め、「融通円門章」等により教義を明文化し、一宗としての制規を定め、学寮も設けるなかで融通念仏宗として整備されていった。「融通円門章」は漢文体で難解なため、その弊を補うために和文形式で書かれた「融通念仏信解章」も広く普及した。

 本山に伝えられた絵巻に『融通念仏縁起』がある。

⑥.融通念仏の最大の特徴は、観想念仏から称名念仏の重要視に変えた事であり、融通念仏宗では、毎朝西方に向かって良忍の説いた十界一念・自他融通の浄土往生を期する念仏(融通念仏)を十唱することなどを日課とする。