ここでは、七夕伝説 について紹介します。

①.難波氏の資料より

 約三千年前、中国の「詩経」という詩の本のなかに牽牛・織女のことが取りあげられているのが最初と云われている。

 織女(織姫、七夕津女とも)天の川の東に機(はた)を織る織女が孤独なのを天帝が憐れみ、西側の牽牛(けんぎゅう彦星とも)に嫁がせたが機織りを怠るので、仕方なく1年に一度(旧暦7月7日)だけ逢瀬を許した。織女が天の川を渡る際、鵲が羽根を広げて橋になるという。との中国の伝説が渡来人たちによって七夕祭りとして定着した。

 万葉集には七夕に関わる歌が130首収められており既に万葉の時代に定着していたことが分かる。香里団地観音山公園に山上憶良(ヤマノウエノオクラ万葉歌人)作の歌碑が建てられている。

 日本で七夕行事が始まったのは、7世紀頃、大陸からの渡来人が織物技術の上達を願って乞巧奠(キッコウデン=物を供えて祭る七夕行事)という形で行われていた。日本書記によれば、持統天皇(女帝)が691年7月7日に宮中で公卿を招いて宴を催したとあり、これが七夕行事の始まりではと云われている。

②.インターネット 七夕伝説より

 織女と牽牛の伝説は『文選』の中の漢の時代に編纂された「古詩十九首」が文献として初出、牽六朝・梁代の殷芸(インウン)が著した『小説』には、「天の河の東に織女有り、天帝の子なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」

 古くは、「七夕」を「棚機(タナバタ)」や棚幡と表記した。これは、そもそも七夕とはお盆行事の一環でもあり、精霊棚とその幡を安置するのが7日の夕方であることから7日の夕で「七夕」と書いて「たなばた」と発音するようになったともいう。

 元来、中国での行事であったものが奈良時代に伝わり、元からあった日本の棚機津女(タナバタツメ)の伝説と合わさって生まれた言葉である

③.御殿山神社 発行 「枚方物語」より

 天の川の東の宮殿に一人美しい娘が住んでいました。

天帝(天をつかさどる神)の子ですが、父の言いつけで、あけてもくれても機を織っていました。それで名前を織女といいます。

 織女の織る布は、雲錦といって雲か霞のようにうすく、紫色の錦でした。また、その糸をはく蚕は天上に生えている扶桑という木の葉でかったもので、紡いだ糸は、天の川ですすいだものだと云われています。

 雲錦にまつわる話によると、それに日光をうつしてみると、五色の気がむらむらと立ち上り、ちりをかければ自然に散ってしまいます。着物に作ると雨や雪にぬれず、真冬に着ると綿を入れなくても暖かいし、真夏に着れば風がなくても涼しいということです。

 ところで織女は、この雲錦を毎日毎日織り続けて、娘らしい喜びも知らなければ、ふさふさとした黒髪をすくこともなく、玉のような顔におしろいひとつつけずに働いていました。これには厳しい父も、さすがに可哀想に思って天の川の西に住む牽牛という若者に嫁入りさせました。

 すると、織女は、今度は結婚の楽しさに夢中になって、父の言いつけの機織などそっちのけ、明け暮れても鏡の前で紅おしろいばかりつけるようになってしまいました。父の天帝は、とうとう腹を立てて織女を無理やりもとの宮殿に連れ戻しました。

 そして、7月7日のよるだけ天の川を渡って夫の牽牛に逢いに行くことを許しました。

 この時は鳥の鵲(カササギ)が天の川の中に翼を並べて橋となります。これが現在の「鵲橋」の由来と言われております。