ここでは、今中風渓旧宅 について紹介します。

在所:安養寺北隣

【ポイント

①.「野崎小唄」の作詞家で有名となる。

②.昭和38年(1963年)80歳で逝去される。

③.大阪生まれの歌人で、旧姓は岩崎、本名は保次郎、廣島高等師範卒業。

 中学時代より作歌し、大正の初めに『詩歌』に参加して前田夕暮に師事。

 のち『覇王樹』『林間』同人。昭和6年(1931)女性短歌誌『若葉』主宰。 歌集に『あかね』。

【関連写真】

 安養寺隣接の入口2014_09_20 金只​   北側全景2014_09_20 金只​   

 北西角からの全景2014_09_20 金只​   南西角からの全景2014_09_20 金只​   

【補足説明】

①.大阪生まれの歌人で、旧姓は岩崎、本名は保次郎、廣島高等師範卒業。

②.中学時代より作歌し、大正の初めに『詩歌』に参加して前田夕暮に師事。

 のち『覇王樹』『林間』同人。昭和6年(1931)女性短歌誌『若葉』主宰。 

 歌集に『あかね』、作詩に『野崎小唄』がある。

③.野崎小唄

④.第2中学校校歌・・・枚方市ホームページより

                 作詩  今中 楓渓
                 作曲  高木 和夫

   1.時の流れに めざめつつ
     己を生かし 友と和し
     良き師の愛に はぐくまれ
     ゆく手の光  相追いて
     ほがらに強く 青空の
     高き希望に   伸びゆかん
      光あれ楽しき学園
      栄えあれ吾らの学園

   2.菅相塚の  名をおしみ
     山の松風  吹き通る
     明るき窓に 相寄りて
     知性をみがき  わざを練り
     こころの鏡 曇りなく
     行くべき道を ひた行かん
      光あれ楽しき学園 
      栄えあれ吾らの学園

④.八尾高等学校同窓会ページより

 昭和10年代に、名歌手東海林太郎の歌声にのせて大ヒットし、今も歌い続けられている 「野崎小唄」 の作詞者は、八尾中学3回生の今中楓渓氏(本名 岩崎保次郎)である。

 落語でも有名な 

 『野崎詣は 屋形舟で参いろ どこを向いても菜の花盛り 意気な日傘にゃ 蝶々もとまる 呼んで見ようか土堤の人

の歌碑が、先生の一周忌に当たる昭和39年8月17日、地元有志の手によって、ゆかりの地「野崎覿音」 の境内に建てられ多くの参拝者に親しまれている。しかし氏は作詞者というより歌人であり、女性和歌誌「若葉」を主宰し、歌集「あかね」「百日」「青潮」等の著作があり、「覇玉樹」同人として、川田順氏と並ぶ関西歌壇の重鎮として活躍した。

 大東市の野崎観音で5月に行われる、自然界の全てのものに感謝のお経を捧げる「野崎まいり」の様子を歌ったもので、現在も大東市の野崎参道商店街振興組合が11月3日に「全国野崎小唄選手権大会」を開くなど、地域活性の役割を果たしている。

 ここで氏の八尾中学時代および卒業後の歌人への道のりについて触れてみたい。

 氏は会報「ゆうかり」 への投稿の中で、”私は八尾中学在学中から、和歌はじめ文学などというものに、うつつをぬかし、他の学業をおろそかにしたために成績が落ち「特待生」の特権を取り消された”と述べている。八尾中卒業後は広島高師へ進学、卒業。久しく女子教育に携わったが、昭和12年1月26日、宮中歌御会初に陪聴の栄に浴したことをきっかけに、大阪府立寝屋川高等女学校の教頭職を辞し「和歌報国運動」に専念することとなる。

 戦後は樟葉の閑静な自宅で、悠々和歌一筋の道を歩み、昭和38年8月17日、80歳の天寿を全うした。

 なお、氏は生前母校八尾高校の発展を常に祈念し、協力を惜しまなかった。

 野球部の甲子園出場、女子ソフトボール部の全国大会、国体での活躍優勝にあたって、激励・祝賀の和歌を色紙(左に)・条幅(資料館掲額)などにしたためて贈呈され、また70周年記念としての 「記念会館」 建設にあたっては、いち早く会館を飾る偏額(ゆうかりホールに掲額)が贈られている。

氏の八尾中在学時代に、校友会誌「会誌」第2号に投稿した和歌4首

〈雁)
うち靡く尾花が袖に月おちて
暁さむくかりなきわたる

(紅葉)
小倉山 つたの細道わけゆけど
紅葉の奥も紅葉なりけり

(秋雨)
氷水めせと招きし人うせて
あれし野茶屋は秋雨ぞふる

(海邊寺)
海人の子がしらぶる笛の音にさへ
むかし忍ばるゝ 須磨寺の秋

【参考情報】

インターネット:野崎参りの絵図

インターネット:大東市野崎(野崎観音)