ここでは、史跡禁野火薬庫跡 について紹介します。

在所:中宮北町2-3先

【ポイント】

①.この付近一帯の移り変りを解説

 ・古代の風景・・・禁野本町遺跡

 ・戦前の様子・・・禁野火薬庫

 ・戦後の様子・・・団地建設

【関連写真】

 案内板設置公園全景2018_01_18 金只  案内板設置風景2018_01_18 金只  

 案内板内容2018_01_18 金只  禁野火薬庫配置2018_01_18 金只  

【補足説明】

①.現地説明盤より

 古代の風景

 アミティ中宮は、禁野本町遺跡のほぼ中央部に位置し、奈良時代から平安時代前期にかけて、百済寺を中心とした計画的なまちづくりが行われていたと考えられます。

 近代(明治~昭和初期)の様子

明治27年(1896)に日清戦争の影響を受けて禁野火薬庫が完成しました。

 その後昭和8年(1933)には約43ha(13万坪)もの大火薬庫となりました。昭和14年(1939)3月1日に、作業中の事故から大爆発事故が発生しました。

 禁野保育所内には、その時の消火活動にあたり命をうしなわれた人々の「殉職記念碑」が建てられています。

 枚方市では、この3月1日を「平和の日」と制定しています。

 中宮第2団地の建設

 アミティ中宮北町の全身である中宮第2団地は、昭和31年(1856)に禁野火薬庫の跡地に建設されました。

 その後中宮第3団地、第4団地が建設され、かっての禁野火薬庫跡は、住宅団地に生まれかわりました。

【参考情報】

You Tyub:ブラタカシ(枚方に古代都市)・・・伏見隆市長が禁野遺跡を紹介