ここでは、星田公園 について紹介します。

在所:星田一丁目

【ポイント】

①.昭和52年、近隣公園と都市計画で整備。

➁.昔から新宮山の名前でひたしまれ、シイの大木などが茂る小高い丘陵地を整備。

【関連写真】

 案内板(星田公園一帯の植物)2023_10_23 金只   標柱(旗懸け松跡)2023_10_23 金只   

 案内板(星田公園の植物)   頂上の広場と鬱蒼とした植物2023_10_23 金只   

 

【補足説明】

①.現地案内板(星田公園)

 星田公園は昭和52年に近隣公園として都市計画決定されました。

 公園の面積は1.6haで、市街地の中心部に位置し、昔から新宮山の名前でひたしまれ、シイの大木などが茂る小高い丘陵地となっています。

 公園の整備は、地形を生かし樹林地をできる限り保全しながら、身近に自然と親しむことができるように計画しました。

➁.案内板(星田公園一帯の歴史)

 この星田公園一帯は新宮山(シングウヤマ)と呼ばれ、山頂部には明治の初めころまで「新宮山八幡宮」が祀られ、北側の一段低い所には宮寺の「愛染律院が建っていました。また山頂の本殿前には、慶長20年(1615)の大阪夏の陣に、当地に本陣を置いた徳川家康が軍旗を懸けたと伝えられる「旗かけ松」という松の大木がありました。

 新宮山の名の起こりは、天暦3年(949)当時三宅山と呼ばれていた星田一帯の土地を石清水八幡宮に寄進し、八幡宮の分霊を勧請して祀ったことから石清水八幡宮を本宮と呼び当宮を新宮と言ったことになります。新宮山八幡宮は室町時代には隆盛を極め、文安2年(1445)には六小社を有する大社と六支院が権勢を誇るかのように山頂に立ち並んでいました。(大津市光明寺所有 愛染律院梵鐘銘)

 しかし、その後はしだいに衰退を重ね、新宮山八幡宮は明治5年(1872)廃されて星田神社に合祀され、愛染律院もまた廃寺となって現在に至っています。

 平成3年はに交野市教育委員会が行った発掘調査では、神社創設を天暦年間とする検証は得られませんでしたが、鎌倉時代の終わり頃までには八幡宮が存在していたことが判明しました。また鎌倉時代から明治の廃寺に至るまでの間には、草創期(13世紀末~15世紀初頭)、戦後期(15世紀~16世紀)、江戸期(17世紀末~廃寺期)の3つの時期の建物跡が確認されました。この他、神社に関連する遺構以外にも、弥生時代の住居跡と推定される遺構や、土器が出土しました。

 このように、新宮宮山の地は、シイの大木が物語るように古代から現代にわたる数多くの歴史を極めたところです。

③.現地案内板(星田公園の植物)

 星田公園の植物は、大きく2つに分けることができます。1つは、公園整備前から生育していた既存の植物で、もう1つは、公園整備によって植栽された植物です。

 遠くから星田公園を眺めると濃い緑色に輝く大きな森が見えます。この大きな森の主役は、シイやクス、カシなどの大木です。このような照葉樹が生育していることから、このあたりが照葉樹林帯に属していることがわかります。

 園路の南側の明るい林は、クヌギやコナラなどの雑木林です。、アベマキ、アラカジ、シラガシなどの樹木の実を俗にドングリと呼んでいます。これらの木のなかには、シイタケのほだ木や炭の原料として利用されているものもあり、実は食用にされていたこともあります。アカメガシワ、ヤマウルシ、アカマツなどの臓器も生育しています。

 以下省略

【参考情報】

インターネット:星田公園(真宮山八幡宮址)