ここでは、番田神社 について紹介します。

在所:番田1丁目18

【ポイント】

①.生保3年(1646)大塚村から分村・・・大塚神社から分社

②.いずれの神殿も祠だけのシンプルな構造で、屋根だけの覆屋のみで拝殿もなし。

【関連写真】

 正面鳥居と全景2022_04_28 金只   祭神(高皇生霊神、神皇生霊神)2022_04_28 金只   

 番田神社由来記2022_04_28 金只   番田神社本殿2022_04_28 金只   

    

 

【補足説明】

①.現地由来記より

 番田神社

 建武2年(1336)5月、この地に大洪水があったとき「高皇産霊神(タカミムスビノカミ)」「神皇産霊神(カムムスビノカミ)」の2神の木造が流れ着き、これを僧恵慶が勧請、奉じて、この地に祀ったのが創建の由来とされている。

 また、古事記によると天地(アメツチ)の初発(ハジメ)の時、高天原に成りませる神の名は、天御中主神(アメノナカヌシノカミ)、次に高皇産霊神(天の父)、次に神皇産霊神(地の母)とある(造化3神)

 「産霊(ムスビ)」の最初の神様で、ものごと成就・念願達成・縁結び・五穀豊穣・合格祈念等に「御神徳のあらたかな神様」である。

 番田神社は大塚神社の分社である。

 番田村

 大塚村の南西にあり芥川最下流左岸に位置する。

 慶長10年(1605)の摂津国絵図では大塚村に含まれ、生保3年(1646)大塚村から分村した。(元禄元年「高槻御領分指し出し写し」より)

 京保20年(1735)摂河泉石高調べでは高59石余、領主の変遷は高槻村に同じ。

 元禄期(1688~1704)の状況と推定される本光院様御代御領分惣名寄では家数13,人数61(高槻町誌)と記されている。

 水利の便悪く、水害の多発した地域であった。

 承応2年(1653)完成した芥川の伏越大樋は大塚領だが番田大樋と名付けられており、元禄6年に北部山麓の上田辺、真上、芥川、天神山一帯などの悪水を流下させるために開削された芥川左岸沿いの新川にも番田水路の名がつけられている。

 これから「番田」は伝承にいう、往昔大陵調貢船の唐崎津入船の費用を賄うための役田「蕃田」に由来するのではなく、水利の「番」にちなむとも考えられる。

 なお明治元年(1868)5月の水害では番田堤が切れて、又大正6年(1917)の淀川右岸「大塚切れ」で大塚一帯が浸水した。

 番田の地名伝承は「大阪府全志」によれば、むかし大陸の朝貢船(みつぎ物を運ぶ船)が唐崎の津に出入りしていたとき、入津費用を賄うために置かれた役田の地で、これを「蕃田」といい、のちに番田となったとある。唐崎の伝承との整合性を図っているとはいえ、それがもともと根拠のうすいものであることから信憑性はかなりうすいよいわれる。

 では、この「番田」というのは何を指すのでしょうか、やはり惣の時代以来の「樋の番」「水の番」と考えるのが一番妥当なようである。

 干拓以来、大塚のかんがい悪水はここに集まり、自然堤防を越えて淀川に流されました。

 生命線の水を守る人々の定着と、その役田と考えてもいいという説もある。

 大塚村

 淀川右岸に位置し、桧尾川右岸最下流域を占める。

 西の村境は芥川南西にある枝郷番田村、東にある同大塚町と領域が錯綜する。

 村内に大塚と称する封土がある。

 清和天皇が譲位の跡、廻国したとき、当地宇松ヶ崎の小松に駐し、淀川の後継をながめ、傍らの松木に冠を掛けたまま帰ってしまった。

  人々はその大冠を埋め、院の死後社殿を設けて王塚と称したのを地名起源とする伝承がある。

 また往古百済国の京福が来朝して当地で亡くなったので、埋葬して封土をつくり王塚と称したともいう。

 「摂津誌」は大塚について大塚村「恵慶法師所謂冠大塚即是未詳誰氏、今抜除以為神幸之地」と記す。

 また文明15年9月17日付の蓮如消息(広島別院旧蔵文書)ぶは「出口たちて、からさきの渡をして、かふり(冠)大つかえゆきて」とあり、このころすでに蓮如の駐錫を迎える惣村の形成をおもわせる。

 これは後の「大津衆」(私心記・永禄3年2月9日条)と呼ばれるものであろう。

 近世には大塚庄の大部分を一村として大塚村が成立したと考えられ、慶長10年(1605)の摂津国絵図には「大塚村」とみえ、高1,502石余で「小村6つ有と見える。

 正保3年「番田村」を分村、天和3年「大塚村」を分村した(元禄元年「高槻御分領指し出し写し」中村家文書)。