ここでは、芥川一里塚 について紹介します。

在所:芥川町三丁目5

【ポイント】

 

【関連写真】

 芥川一里塚全景2020_05_05 金只   標柱(芥川一里)2020_05_05 金只   

 案内板ー1(芥川一里塚)2020_05_05 金只   案内板ー2(芥川一里塚)2020_05_05 金只   

 

【補足説明】

①.現地案内板より

 芥川一里塚三宝荒神

 三宝荒神は、仏・法・僧(仏陀とその教え、出家者の生まり変りという仏教三宝をまもり、災いや穢れを退ける神仏習合の守護神です。「日本書紀」では素戔嗚尊が荒神とされ、修験道の開祖・役行者が感得したともいう伝説がある我が国独自の神様ですが、ヒンドゥー教の破壊を司る神シバァの三叉矛や不動明王の剣を持ち、三面六臂(顔が三つ、腕が六本)の忿怒の姿であらわされ、インドとのつながりも見て取れます。火が穢れを焼き尽くし清浄を保つことから、火の神居、竃の神とされ、台所や竃に祀る「荒神さん」として、広く信仰を集めてきました。

 芥川の荒神さんは、1200年も前の奈良時代、天平宝字6年(762)に観念寺の一角に祀られたと伝わります。

 明治維新後に行われた神社整理など旧芥川村の五社が阿久刀神社に移されました。明治5年(1872)のことです。その後、大正15年(1927)」になって、地域の方々のご尽力でここ芥川一里塚のに再移転し、周囲に玉垣を設けて、お祀りされるようになりました。

 大正の終わり依頼90余年、荒神さんを維持、継承してきた近隣の9自治会で構成する保存会が、平成の終わりに浄財を募って祠や塚を大修理しました。地域の歴史的遺産を次世代へ継承するため、大切にまもってまいりましょう。

 平成30年11月 芥川一里塚三宝大荒神保存会

②.現地案内板より

 大阪府史跡 西国街道芥川一里塚

 芥川一里塚葉、西国街道の宿場町「芥川宿」の東口にあります。

 芥川とともに重要な交通路であった西国街道は、江戸時代には京都・山崎と兵庫・西宮を結ぶ脇街道「山崎通」として、多くの旅人が行き交いました。江戸幕府による街道整備を受けて、ここ芥川には参勤交代の大名が泊まる本陣や伝馬(公用の荷馬)が置かれ、旅籠が軒をつらねる宿場町の姿が整ってのです。

 享保19年(1734)作の『芥川宿絵図』には、街道沿いにひしめく草葺きの町家や旅籠屋、瓦葺きの本陣と教宗寺、エノキの茂る一対の一里塚などがていねいに描かれています。のちの天保期(19世紀前半)には、旅籠33軒を数えたと伝わります。

 明治時代、鉄道開通とともに宿場町の面影は急速に失われ、大正15年(1926)には塚の正面に三宝荒神や石地蔵が祀られました。

 依頼、この地は荒神さんが結ぶ地元の人々によって守り継がれ、このたび、、長年の風説で傷んだ塚や祠が、地元の浄財と芥川一里塚三宝荒神保存会をはじめとする関係者の尽力で改修されました。急山崎通で唯一現存する一里塚であり、地域の宝として、これからも大切に守っていきましょう。

【参考資料】

インターネット:たかつきナビ(芥川一里塚)