ここでは、西雲寺観音堂由来記 について紹介します。

【ポイント】

①.渚院は、桓武天皇の交野ケ原の遊猟で休憩所と利用したことに始まる。

②.嵯峨天皇記に渚院を頓宮とすとある。

③.惟喬親王(844~894)は渚院を別荘として使用。

④.後鳥羽上皇が元久年(1205)に行幸したのが最後。

⑤.時は移り、さびれ、一つの小宮があるだけになった。

⑥.文禄の頃、渚院跡地に観音寺建立。

⑦.万治年間(1658年~1661)に、領主永井尚庸が本堂を修復。

⑧.明治10年(1877)に三粟清伝寺にあった渚村小学が観音寺に移転。

⑨.明治23年(1890)には観音寺は禁野本町の真言宗和田寺へ移転。

⑩.同年、御本尊の十一面観音は、渚元町の西雲寺境内に観音堂(4坪)を建て、安置された。

西雲寺参拝時受納資料より

 光仁天皇が宝亀(771)に交野に行幸したのが、皇室が交野ケ原に深い関係を持つ始まりでした。

 次の桓武天皇は楠葉の藤原継縄の家で身支度を整え、16回も交野ケ原に行幸したり、遊猟したりしました。そのおりに渚院を休憩所として利用し

たものと思われます。

 「渚院碑」に嵯峨天皇は「渚院を頓宮とす」と刻まれています。このことから渚院は嵯峨天皇以前に存在していたことが分かります。           

 文徳天皇の第皇子惟喬親王(844年~894年)は渚院を別荘とし、藤原業平、紀有常らと遊猟、饗宴して天皇の位につけなかった憂さをはらしました。この頃は、渚院の辺りは、冠や牛車の屋根が雲のごとく見えるほど栄えました。

 しかし、貞観(872)惟喬親王は出家して比叡山の麓、小野の里に幽居しました。主を失った渚院はさびれ、後鳥羽上皇が元久(1205)に行幸したのが最後のようです。

 時は移り、渚院は蜘蛛が網を張るくらいさびれ、里民のために掠められ、千株の花はことごとくなくなり、1小宮があるだけになりました。

 平橋家大工組文書に

  乍恐御願申上候

  真言宗城州八幡山滝本坊末寺河州交野郡渚村観音寺境内

  東西弐拾壱間南北拾七間

  百十八年巳前文禄三午年

  木下右衛門殿御検地之節御除被下、  (以下省略)

とあり、観音寺境内は、文禄(1594)には、除地であったことが分かります。

 明暦年間(1655年~1657年)に観音寺は河内西国33ケ所16番札所として善男善女がお参りに来たと言われています。

 ご詠歌に

   「きてみれば 渚の院のなのみて むかしをしのぶ 梅さくらかな

と詠まれ、荒れ果てたさびしいお寺であったことが分かります。

 「渚院碑」に「紀州太守尚庸が渚院を通り過ぎたとき、その荒廃を憐れんで墓修を加えた」と刻んでいます。

 また「平橋家大工組文書」に万治年間(1658年~1661年)に、領主永井尚庸により本堂が修復されたことが記されています。

 延宝(1676)には、本尊十一面観世音菩薩の厨子を横山平左衛門政勝が奉納しています。

 延宝(1681)の寺社改に「真言宗新義城州八幡宮社僧滝本本坊末寺永井伊賀守知行所、渚村検地、観音堂観音寺看坊慈善」とあります。

 寛政(1796)に鐘楼が建てられました渚出身の惣助と文右衛門という宮大工が建築したことは棟札と「平橋家大工組文書」によって明らかになっている。

 梵鐘は、枚方市上之町の田中家が鋳造したもので枚方市に残る唯一の作品で、鐘楼とともに平成(1996)枚方市指定文化財となりました。

 梵鐘は、寺主興善が有縁の檀施を募りましたが、志を果たさず他界しましたので、鋳造することができませんでした。しかし衆檀が興善の33回忌に先業の未遂を復するために鐘を作るに至りました。

 享和元年(1802)「河内名所絵図」が刊行されましたが、年前に建てられた鐘楼が描かれていません。たぶん版木の製作後に建立されたためでしょう。

 明治の初め、維新政府が従来混合されていた神道と仏教を分離する政策をとりました。即ち、仏像、仏壇を取り除かせ、神社所属の僧侶の還俗を命じました。こうした政策は廃仏稀釈(仏法を廃し、釈迦の教えを棄却すること)の運動となり、渚院観音寺もその影響を受け、明治(1870)廃寺となりました。隣接していた西粟倉神社は同年月御殿山神社と名を改めいまの地に還宮しました。

 「大阪府全史」には次のようなことが記されています。

 明治10(1877)に三粟清伝寺にあった渚村小学が渚院に移転しました。明治22(1889)には渚村は周辺の村と合併して牧野村となり、明治23(1890)には観音寺は禁野本町の真言宗和田寺へ移転し、御本尊の十一面観音は、渚元町の西雲寺境内に観音堂(4坪)を建て、安置された。明治24(1891)には、観音寺の跡に木造平屋建の牧野村役場が新築された。

 その後、明治44(1911)月に改築され、現在に至っています。

 そして毎年18日には法要を営んでいます。

                                    文責  森崎許甚蔵