ここでは、蹉跎神社 について紹介します。

在所:枚方市南中振

【ポイント】

①.祭神:菅原道真

.延喜1年(901)道真公、九州大宰府へ左遷の途中立ち寄る。

③.蹉跎山の起源

 息女苅屋姫が後を追いこの地に至ったが、父は既に出立した後だったので、蹉跎(足ずり)して悲しむ

④.後日、道真公がこの話を聞いて、自身の坐像を造り村に付与⇒祭神となる

.天暦年(951)当山に社殿を造営し近郷二十有五個村の産土神(ウブスナガミ「総社」とした。

⑥.道真公・大宰府への旅立ちの歌

          東風(こち)吹かば 匂い起こせよ梅の花

            主(あるじ) なしとて 春を忘るな     (和歌集)

【補足説明】

  標柱2012_04_12 金只  一の鳥居2015_04_09 金只  二の鳥居全景2012_04_12 金只

①.境内由緒略記より

・祭神 菅原道真公

・創立年代 天暦5年(951)

・由緒

  当社延喜元年(901)正月菅公が大宰権帥(ダザイゴンノソツ)として、九州筑紫の大宰府へ御左遷の途中比山にて暫時御休息あり遙に、京の都を望み深く名残りを惜しみて西へ旅立たれ比も休憩ありし山を管相塚と称ふ然るに都に残られし御公達の中にの御寵愛深かりし苅屋姫が別れを惜しまれ跡を慕ひてこの地に来られましたが、遂に及ばず遙に西天を望み蹉跎して悲嘆せらる其旧蹟を蹉跎山と名ずく菅公は御丈3尺2寸の御坐像を配所にて手づから作らせ給ひしを村人らが当山に社殿を造営し近郷20有5個村の産土神(ウブスナガミ)「総社」として斎き祀りしが慶長19年(1614)の兵乱に社殿は炎焼したれども御神像のみは厳然と座せまししかば再建せられ中振・出口両村の産土神として奉祀せられる創建より幾多の変遷を経て明治5年より郷社に列せられ翌6年2月堺県より祀官を派遣し爾後社職を欠かさず明治22年3月社殿を改築し以て今日にいたれり。

                                  御旅所 枚方市大字出口にあり

②.境内の今一つの由緒書きより

 蹉跎神社(龍光寺跡)

 蹉跎神社縁起によると、菅原道真が大宰府に遷る途中、娘のは父を見送るためにここまで急いできたが間に合わず、足ずり(蹉跎)して嘆き悲しみ、これを知った道真が娘を不憫に思って自像を作って送り与えたため天暦(テンリャク)5年(951)ここに社殿を造営してその木像を納めたという。

 境内には聖徳太子(厩戸主うまやど)開基の伝承を持つ龍光寺があった。延暦4年(785)の火災ののち衰退し、大阪冬の陣のとき神社もろとも焼失したが、間もなく再建され、蹉跎神社の宮寺として明治初年の神仏分離ませ存続した。本尊の聖観音像や正和2年(1313)の裏書を持つ大涅槃図(ダイネハンズ)などは南隣の浄土院に移された。

③.境内配置

 1).府道入口に「蹉跎天満宮」の標柱

 2).一の鳥居は、河内街道に面して建っている。

   前には、街道筋に沿って設けられた用水路に架かっていた橋が残されている。

   二の鳥居までは、緩やかな坂道が続く。

 3).二の鳥居前には、左に手水場、右に二つの説明板がある。

   左側には、駐車場があり、春4月には桜がきれいである。

  二の鳥居横駐車場の桜2012_04_12 金只

 4).絵馬殿は、二の鳥居から13段の階段の上にある。

   江戸時代にこの地域で使用された手押し式の消火ポンプが展示されている。

  消火ポンプ2012_04_12 金只

   絵馬は、壁面一杯に展示されており、今も色彩鮮やかである。

  蹉跎神社(絵馬-1)2012_07_19 金只  蹉跎神社(絵馬-2)2012_07_19 金只  蹉跎神社(絵馬-3)2012_07_19 金只

  蹉跎神社(絵馬-4)2012_07_19 金只  蹉跎神社(絵馬-5)2012_07_19 金只  蹉跎神社(絵馬-6)2012_07_19 金只

  蹉跎神社(絵馬-7)2012_07_19 金只  蹉跎神社(絵馬-8)2012_07_19 金只

 5).74段の階段を上がると奥の境内の入口に至る。

   一般には、此処に三の鳥居があるが、蹉跎神社では、長屋門が設置され、長屋部分は社務所として使用されている。

  絵馬殿から社務所中門2012_04_12 金只  拝殿からの中門2012_04_12 金只

 6).中門を抜けると正面に拝殿・本殿、左に4つ末社を、右に神輿格納倉・神牛・神楽殿を配している。

  中門からの拝殿全景2012_07_19 金只  神楽堂2012_04_12 金只