ここでは、離宮八幡宮 について紹介します。

在所:大山崎西谷21-1

【ポイント】

①.主祭神:八幡大神(応神天皇、神功皇后)

  相殿神;酒解大神(サカトケノオオカミ)、比売三神(ヒメサンシン)

③.社歴

 ・貞観元年(859)、第56代清和天皇が宇佐神宮から平安京の守護神として奉安したと伝わる。

 ・貞観年間(859~877)当宮神官が「長木」を発明して「荏胡麻油」の製造開始。

  鎌倉時代に大山崎油座の制度が出来ると全国の荏胡麻油の販売権をぢ独占した。

 ・寛永12年(1635)徳川家光の命により、山城国長岡藩主永井直清が奉行となって本殿・拝殿が再建され境内が南に拡張。

 多宝塔や鐘楼が」増築され江戸時代前期には「西の日光」と呼ばれ繁栄した。

 ・その後、菜種油が大量に生産せれるに至り、市場を奪われ、徐々に衰退していった。

 ・元禄10年(1697)、幕府の裁定で「石清水八幡宮」の社号の争いに敗北。以降、当社は「離宮八幡宮」を正式名称とした。

 ・元治元年(1864)の金門の変(蛤御門の変)で長州藩がここに屯所を置いたため、多くのしょうか離宮八幡宮の殆どを焼失した。

 ・明治時代に入ると、神仏分離令により神宮寺が廃寺され、境内の西側が大阪府に割譲された。

 ・明治9年(1876)東海道本線複々線化工事で、かっての拝殿の場所に本殿・幣殿・拝殿を繋げる様式に改築。

【関連写真】

 離宮八幡宮総門2023_10_12 金只   標柱(離宮八幡宮)2023_10_12 金只   

 手水舎2023_10_12 金只   神馬2023_10_12 金只   

 塔心石2023_10_12 金只   油祖像2023_10_12 金只   

 製油発祥地関連標柱2023_10_12 金只   標柱(本法製油発祥地)2023_10_12 金只   

 標柱(河陽宮故地)2023_10_12 金只   

 内陣山門前の鳥居2023_10_12 金只   内陣入口の山門2023_10_12 金只   

 本殿・幣殿・拝殿一体型の神殿   八幡宮拝殿2023_10_12 金只   

 拝殿の奥の幣殿と本殿2023_10_12 金只   社務所2023_10_12 金只   

 菅原道真腰掛石2023_10_12 金只   河陽宮などの礎石2023_10_12 金只   

 

【補足説明】

①.門前説明版(離宮八幡宮)

 応神天皇、姫三神、酒解大神

 平安時代初めの頃、清和天皇が、太陽のわが身に宿る夢を見給う時の御告げにより、九州の宇佐八幡宮から心霊を奉じて帰郷した僧行教が山崎津で夜の山に霊光を見た。

 そこで此の地を掘ると岩間に清水が湧出したので国家鎮護のための、「石清水」の八幡宮を此処に創建。丁度、嵯峨天皇離宮のちなので、現在は「離宮八幡宮」と号している。幕末の「禁門の変」では長州藩の屯所となった為、兵火で焼失したものの、それ迄は水無瀬川より円明寺に及ぶ広大な神領を有し「西の日光」と云われる程の宏壮優美な社殿を構えていた。

 鎮座後は、対岸の男山にも分祀され、以後はそちらが「石清水八幡宮」と称されるなる。こうした事から、毎年4月3日には勅使ちょうしが先ず当社に詣った後、淀川を船渡りして男山へと参拝する。これが「勅使頭祭」の起りである。山崎津が油業の大中心地となり、また港として繁栄した室町時代には、50隻の船が渡御

する大祭礼であった。京都加茂神社の葵花をかざす祭が「北祭」とよばれたのに対して、油長者が藤の花をかざす「南祭」と称される豪華を極めたものであった。

 やはり、清和天皇の頃に、当社の神主が「長木」という道具で「荏胡麻(エゴマ」(青紫蘇に似た勅物の種子)を絞って油を搾り、神祈りの灯火に頂いた。これが始まりで、室町時代ともなれば、宮廷はもとより全国の社寺や一般の人々で、油と言えば山崎産のものを使わない人はなかった。

 宵ごとに 都へ出づる 油売り

  ふけてのみ見る 山崎の月

とあるように、当社の「神人(ジニン)」たちが独占的に油を製造し、これを売り歩いたからである。

 山崎は三川合流して大淀川となる地峡として、京都を目指す水陸交通の咽喉元にいちする。

 そこで南北朝の昔より、天下取りを望む武将たちっは競って此の地を占拠した。神領を安堵し油座を手厚く保護することによって神威の御加護を願い、一方では其の財力にも頼ったのである。そのため天皇綸旨をはじめ。将軍義満や家康の書状その他禁制・部地など300通にも及ぶ重要な古分署が保存されている。昔、淀川べりに建てられいた大鳥居井の額「離宮八幡宮」の文字は、「三筆」と称えられる藤原行成の手になるという風格絶佳なる其の名筆は拓本として現存している。

  平成8年春 離宮八幡宮社務所

➁.現地案内板(山崎の油売り)

 社伝によると平安時代、神勅により当宮の神官が「長木」という油しぼり道具を作ったといわれます(右上の図)。長さ約6mの八角形の柱を3本組み合わせ、油をしぼるための部品を挟み込み、縄で締めあげて荏胡麻(エゴマ;シソ科)の実を押しつぶして油をつくりました。これによって神前に棒げる燈明の原料である荏胡麻油を大量にしぼることができるようになりました。

 中世になると当宮の油神人は「荏胡麻油」の製造・販売の独占権を認められます。山崎の油売りたちは日本中に材料のエゴマの買い付けに出向き、京の都に油を売りに行きました。

 離宮八幡宮は「本邦製油発祥の地」として日本中の油商から崇敬され、今に至っています。

  平成29年3月吉日

③.現地案内板(荏胡麻油の搾り器)

 復元模型は、『製油濫〇』をはじめとする資料を参考に、伝統建築にたずさわる技師、職人さんのご協力と指導で完成した。

 手前の長木は実験的な搾油を重ねるなかで改良を加え、年々、搾油率が上がっている。奥の立木は直立する2本の縦木と横木の間にクサビを差し込み、両側から槌で打つことで横木を押し下げて圧力を加えていく。こちらは近代まで各地で使われていた。

 長木、立木ともに縦の木は本来、全体の3分の1ほどが地上に出ている固定式である。模型は移動が可能なように地中部分を割愛して制作した。

➃.現地案内板(塔心礎;扇型石・かしき石)1基

  大山崎町指定文化財 昭和63年11月1日指定

 当心礎とは、五重塔など木造塔の中央に立つ心柱を支える礎石のことです。本礎石の最大幅は約266cm、中央の柱座(心柱を立てる部分)は短径106cm、長径110cmを測り、かなり大規模な塔であったと思われます。柱座の中央には直径20cm、推定深さ35cmの舎利孔が設けられ、その形式から政策年代は奈良時代以前と考えられます。心礎が使われた寺院については、7世紀の山崎廃寺、8世紀前半の行基による山崎院、9関半葉に壱演が建立した相応寺などが想定されます。

 後年中央の柱座部分を扇形に削り込み、手水鉢として使用されました。19世紀初めの「山崎通分間延絵図」では離宮八幡宮南門前の交差点付近にあり、「手水石」と記されています。別の絵図では「かしき(カシキ)石」とも記されています。

  平成29年3月 大山崎町教育委員会

⑤.インターネットより河陽宮(かやのみや)

 河陽すなわち川の北、淀川畔の風光明媚な山麓一体の地につくられた離宮。

 行幸があれば使用して宮名も存続の条件で861年山城国府に移管。908年山城国に下げ渡される。

【参考資料】

インターネット:離宮八幡宮を訪れる

インターネット:離宮八幡宮(山崎観光案内所)