淀川(よどがわ)は、琵琶湖から流れ出る唯一の河川瀬田川(せたがわ)、宇治川(うじがわ)、淀川と名前を変えて大阪湾に流れ込む。滋賀県京都府及び大阪府を流れる淀川水系の本流で一級河川。流路延長75.1km、流域面積8,240km2。なお、先述の流路延長は琵琶湖南端よりの延長であり、河口から最も遠い地点は滋賀県・福井県分水嶺である栃ノ木峠であり、淀川の源の石碑が設置されている。この場所は琵琶湖へ流入する河川・高時川の水源地であり、そこからの河口までの直線距離は約130km、流路延長に換算すると約170kmとなる。

また、琵琶湖に流入する河川や木津川などを含めた淀川水系全体の支流(支川)数は965本で日本一多い。第2位は信濃川(880本)、第3位は利根川(819本)となっている。

Wikipedia よりCC BY SA  淀川

  1. 国家貢納物の輸送と淀川

    しかしながら,淀川は古来より航行可能な河川として,人あるいは物の流通に大きな役割を果たしておりました。

    平安京の頃の淀川流域を示した(地図3)をご覧下さい。まず,国家貢納物の輸送について,先程もご紹介しました『延喜式』によりますと,西日本の各地からは,瀬戸内海を航行し,淀川を遡りまして,現在の京都市伏見区にあります淀の付近で陸揚げされていました。この淀は現在の淀川の起点にあたり,桂川,琵琶湖を源流とする宇治川,そして木津川が合流する地点に位置しております。地図を御覧いただければお分かりのようにこの3つの川の合流点には,今はありませんが,巨椋池という大きな池がありました。淀はその中州にありまして,平安京の外港としての役割を果たしていました。中州からは通常,渡し船で行き来していたようです。

    淀に集められた国家貢納物は,さらに陸路,馬や車などを利用して平安京にある大蔵省の倉に収められました。

    淀に近い山崎も,淀と並んで物資の集積地となっておりました。琵琶湖の大津,淀川の淀・山崎が平安京の外港となっていたといえます。

    この点に関して言いますと,当時,公定米価を定めるのにあたって,この大津・淀・山崎の米価が参照されていたといわれ,これらの場所は,米の集積地であるのみならず,都や国家の経済に直結する米の取引が行われる場でもありました。

  2. .荘園年貢輸送・旅と淀川水運

    また,時代が下って荘園が発達してきますと,淀には荘園年貢が陸揚げされる重要な港となります。例えば,(地図1)瀬戸内海に浮かぶ弓削島という島には,京都の東寺が領有する塩を年貢に出す荘園がありましたが,年貢の塩は,瀬戸内海から淀川を遡り,淀で陸揚げされた後,東寺へ陸送されていました。また,淀には13世紀頃から塩と魚介のみを取り扱う卸売り市場ができ,ここでは,淀川を遡ってそれら商売用の塩や塩引きの魚介類を積んできた船を,強制的に着岸させていました。ちなみに,淀川の河口から淀まで船で遡るのには丸一日かかったといいます。

    ここまでは淀川をさかのぼってくる年貢や商品についてお話しいたしましたが,淀川は人々の往来にも利用されました。(地図1)例えば,平安時代以降,紀伊半島の南に位置しています熊野や高野山が人々の巡礼の場所となります。この巡礼には,淀や山崎などから船で淀川を下って海に出て,海路を最寄りの港まで航行していました。当時の記録を見てみますと,淀川の水量が少ない時期には,浅瀬を掘り,水路に標識を立てたり,ことに航行が難しい場所では,葦を束ねたり小さい木を積んで,堰を作って川の流れを移すなどの工夫をしていたことが分かります。

    船が航行する場合,下流に向かう場合は問題がありませんが,遡る場合は,人が集団で綱で船を引いたことが記録に残っています。中世のヨーロッパですと,川を航行する船は綱をつけて馬で引き,そのためのフットパスと呼ばれる道も川の両側に整備されていたようですが,日本の中世では,私の知る限り馬で川船を引いた例は見あたりません。

    また,15世紀半ばに,淀川下流域を航行する帆かけ船を描いた指図があることから,淀川においては,風力も推進力として利用されていたことが分かります。

  CC BY 宮内庁ホームページ"第3回世界水フォーラム開会式における皇太子殿下記念講演"より