分杭峠 について知っていることをぜひ教えてください
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峠は境界になることが多く,境界の目標に木の柱を立てる場合があるとして,札立(ふだたて)峠,大杭峠,標(ひょう)峠,傍示(ぼうし)峠などとともに分杭峠を例として挙げられている.
松尾俊郎編『地名の研究 : 社会科教授資料』,大阪教育図書,1959 -
境界に立てられるとされる分杭は「ぶんぐい」と呼称され,1691年(元禄4)以後の記録と推定される「御領分株之覚」によれば,高遠藩領には105本の分株(分杭)があった.分杭は,当初は木製で検地に伴い設置されたと考えられている.1983年当時,9本が残っていたが,そのうち5本は花崗岩の材質で,木製から石製に変更されたものの事情により高遠藩政のもとでは建立が認められずに保存されていたと考えられている.9本のうちの1本である分杭峠の「従是北高遠領」と刻まれた分杭は,約2mほどの角柱で、峠路改修の際に発掘されたものとされる.この石製角柱は,1974年(昭和49)頃に盗まれた.1976年(昭和51)に東京都杉並区の広瀬久蔵氏が営む石材店の篤志によって,宮田村津島神社の分杭をモデルにして復元された.
田中喜和人「信濃の峠路(23)分杭峠」,『信濃教育』(978),信濃教育会,1968
林茂樹「高遠藩領分杭考」,『信濃 [第3次]』35(3)(399),信濃史学会,1983 -
1840年(天保11)に写され,黒河内谷右衛門が所持していた「御代官江差上候絵図面」(黒河内史料)には,「鹿塩道」の峠として「市ノ瀬峠」が示されている.またその脇には「御分杭」の記載がある.原図は1690年(元禄3)の年号が記されている.
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1920年代には,鹿塩で市野瀨峠と呼び,市野瀨で鹿塩峠と呼んでいたという記録がある.明治年間には粟沢峠と呼んでいたとされる.陸地測量による地図作成の際に,峠の呼称が二つでは困るので,分杭が建立されていることから,分杭峠と命名されたと考えられている.
信濃教育会下伊那部会編「赤石登山案内」,古今書院,1923,ほか黒河内谷右衛門著『信州伊那入野谷の伝承』,甲陽書房,1975
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1897年(明治30)頃,峠を荷馬車が通れるようになった.また,1901年(明治34)には高遠から北川の味噌震(みそゆるぎ)まで車が通れるように改修されていたともされる.また,大正末から昭和にかけて,中沢から峠を経て北川まで架設された伊那商事索道会社の索道によって物資の運搬がなされていた.1923年(大正12)には郡道粟沢高遠線が認定され,1949年(昭和24)頃から分杭峠を通る道は重要路線として改修され,1955年(昭和30)には主要地方道飯田茅野線が認定されている.
市川健夫「長野県下伊那郡大鹿村の地域構造」,信濃史学会編『信濃 [第3次]』7(3),信濃史学会,1955
田中喜和人,前掲書 -
1892年(明治25)8月中旬にウォルター・ウェストンは,大河原から赤石岳に登っており,その途中に,「市野瀬峠(the Ichinose- toge)」を越えている.峠には,おいしい木いちご(raspberry)があり長居してしまったと言っている.
田畑真一「研究の窓 ウェストンの旅行免状と一巡査」,信濃史学会 編『信濃 [第3次]』48(7)(559),信濃史学会,1996
『日本山岳名著全集』第1,あかね書房,1962 -
1959年には飯田線伊那北駅から分杭峠を越えて鹿塩へ行く国鉄バスが運行していたとされるが,3月には積雪があり,運休しており,高遠行きのバスの運転手は「さあ,大鹿村にはいまバスは行ってないけど」と答えている.1961年の豪雨災害によりバスは運行中止となった.
安川茂雄著『歴史の山旅』,有紀書房,1961
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峠の標高1420mの地点に,常住の「分杭峠茶屋」があったとされる.実際には茶屋ではなく,最初は荷物中継所であったものが,荷物輸送の鉄索ができたあと炭焼業者の住宅となったものともされ,煮売などはしていなかったともみられている.峠から伊那里寄りに「一山」という峠茶屋があって、物資取り次ぎをして,馬車,通行人などの休み場所ともなっていたともされる.そのため,峠の名も「一山峠」という別名で親しまれていたようである。
東京天文台編「理科年表」,東京帝国大学,1934
京都帝国大学文学部地理学教室編『地理論叢』,第5輯,古今書院,1934
田中喜和人,前掲書 -
1938年7月の大雨では,分杭峠を中心とした大鹿村,伊那里村,中沢村の地域で山崩れなどの被害があった.
長野県経済部編「長野県気象年報昭和13年」,1940 -
峠から南へ続く道では,養命酒の原料となるモンシャ(クロモジ)が,長さ60-90cnぐらいで芽が出たところを伐って干されていたのが見かけられた.
向山雅重著『山村小記』,山村書院,1941 -
中央高地は,東西方言の緩衝地帯であり,野麦峠-鳥居峠-大田切川-分杭峠の線に方言の境界があると考えられている
『文化地理大系日本シリーズ』3,平凡社,1958 -
中央構造線に沿って形成された断層谷でもある縦谷の谷中分水と考えられている.
牛丸周太郎著『信州高遠地方の地質』,信濃教育会上伊那部会,1928 -
1976年(昭和51),分杭峠の大鹿村側に,大正11年以来の公有林野官行造林に対する顕彰碑が建てられている.
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1994年(平成6)に建設省のダム工事事務所長として赴任した宮本高行は,「日本のアスペン構想」と「ウェルネスビリッジ構想」を美和ダムのある長谷村で構想した.その後「21世紀の伊那谷を考える会」が発足し,この会が1996年(平成8)7月に気功師の張志祥や佐々木茂美を長谷村に招き,宮本や長谷村長の宮下市蔵が出迎えた.宮本は分杭峠から杖突峠方面まで中央構造線沿いに張を案内する予定であったが,張は出発点の分杭峠で蓮花山同等の気場を発見したとされる.
宮本高行『世紀のパワースポット・分杭峠を100倍楽しむ本』,学研マーケティング,2015 -
1998年(平成10)には国会議員連盟「人間サイエンスの会」の第10回の会合が長谷村で開催され,関係する国会議員が分杭峠の現地見学を行っている.
宮本高行,前掲書 -
2003年(平成15)7月にテレビ朝日系列で放映された「ビートたけしの!こんなはずでは!!」の中で,分杭峠が取り上げられた.
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2010年(平成22)からは分杭峠へのマイカーの乗り入れが禁止され,シャトルバスの運行が開始した,
宮本高行,前掲書