ある夏の夕日のことであった。ここ石田川(今の富田川)のほとり稲羽の里の、ある楠(くすのき)の大木(おおき)の根元(ねもと)で、一人の旅僧(たびそう)が流れる汗をふきながら、疲れを休めていました。そこへ一人の老人がたくさんの稲束を背に負って通りかかり、見ると老人は、白髪の下、眼光(がんこう)けいけいとして人を射るようなまなざしをして、いかにも由緒(ゆいしょ)ありげである。そばには二人の娘がつき添い、これからもまた稲束を背負っており、どこか知らぬが我家へでも帰るようでありました。そこで旅僧はこの親娘に声をかけようかと思ううちに、足早に通りすぎ、アッという間にその姿を見失ってしまいました。日もはや西に傾き、ようやく暮れてきたので、僧はそのまま野宿をすることにして、いつかぐっすり寝込んでしまいました。その夜、僧をそっとゆり起こすものがあり、見ると夕方見た老翁でありました。そして、「私はずっと以前稲羽の里の長者であったが、今は死に絶えている。女二人は私の娘であるが、どうか私を上宮(うえのみや)とし、女二人を下・中社としてこの地に祀って(まつって)ほしい」といったかと思うと、ハッとして夢から醒めました。僧は不思議なことがあるものと思い、早速この地に稲荷のお使いとして、三人を丁寧に祀ったのです。後世、この社が稲葉根王子となり、稲荷社は末社として末永く祀られ、白河法皇らの奉幣(ほうへい)を受けられました。なお、この僧は名を円仁といい、比叡山延歴寺第二代をついだ天台の高僧、智証大師その人で、平安初期の仏教興隆に大いにつとめ、のち天台および真言の両教に通じた人でありました。時にはおよび嵯峨天皇、弘仁十二年夏のころで、大師が年来の宿願であった熊野詣の、その帰り道のできごとでありました。