各市史等の由来等は記述されているが失われ行く跡地も多く、ここではこの地の歴史に少しでも興味を持って頂けるような記述に心掛けたい。小諸、佐久の地は千曲川、湯川等川並びに田切、谷等の天然の要害の地のりが多く、小さな豪族が多い上、四方山々に囲まれているので長らく外からの進入には耐えてきた。また真田の地の緩衝材になり、以降で真田の栄える理由の1つになったと思えるが、大きな勢力が生まれなかったのもそのためと考えられる。大井城は、石並城、王城、黒岩城の3つの城から成る。石並城がもっとも古く、一遍上人が訪れたと言われている。その後この一体の大きな勢力になった頃築城されたのが王城である。3つの城とも東側に絶壁となっている上、湯川があり、天然の要害になっている。おそらく守る城として作られており、大井氏が最初から居城にしたのは長土呂あたりに長土呂館ではないかと言われている。中でも王城は大井朝光が築いたと言われている。その嫡子光長には7人の子がおり、耳取、長土呂、森山、岩村田、平原、大室、一人は僧侶で、各地に城を作り、その後の統治している。この光長の子のよる一体の統治がこの地を守るには絶妙なものであった。大井城は大井惣家があり、光長の三男行光がついでいる。その時、森山の入居した五男宗光と、惣領家の行光との間に相続に関わる争いがあり、宗光が行光の代官を殺害、当時の執権北条時宗による裁きより、宗光は佐渡ヶ島に流罪となっている。その後、近江の守山氏が森山に入居することになる。光長は、この地の地の利を考え、千曲川、湯川、田切り、または街道を守る地に子をおき、各家の裁量で城を作らせ、一体統治させた。