青木の一里塚 について知っていることをぜひ教えてください

この一里塚は仙石秀久により、北国街道の整備の一環で行われ、現在、小諸市内には平原・唐松(御幸町)・青木(新町)の3か所に設置された。

開発行為により当時の面影はないと推察される。塚らしいものはあるが、当時のものとは断定できない。標柱の足元には五輪搭の一部空輪(宝珠形・団形)が置かれていたが、一里塚との関連があるのかは不明である。

位置 Googlemap Googlestreetview オープンストリートマップ Mapillary

【参考】

小諸市誌歴史編(三)近世史

街道と一里塚

 街道の両側に一里(約四キロ)ごとの印に設けられた塚で、多くはその上に榎を植えて旅人の目じるしにしたものである。織田信長も一里塚を築き、豊臣秀吉は五間四方の塚を三十六町一里として一里塚を築いたといわれる。制度として確立したのは、徳川家康が秀忠に命じて、慶長九年(1604) 江戸日本橋を起点として、東海道・東山道・北陸道の三道に、榎を植えた一里塚を築かせ全国に普及させた。同じ頃、幕府領は代官に、私領は領主に沙汰して一里塚を造築させた。小諸藩主仙石越前守秀久は幕府の沙汰(命令)を受けて、中山道と北国街道の整備に合わせて一里塚を築かせたといわれる。一里塚と次の一里塚の間を三十六町とし、五間四方の塚に榎や松を植えて、旅人に道法を表わす道しるべとしたり、駄賃支払の目やすとしたり、日ざしの強い日 には木かげを与え、旅人に憩いの場所を与えた一里塚であった。

 榎を一里塚に採用したのは、榎は根が深く広がって塚を固め、塚が崩れにくいことにあった。榎の代りに松を植えたところもある。

 北国街道は、追分の分去れや追分原を経て、追分宿より廿八町の追分原の一里塚となる。途中から塩野道が分岐し、そこにも一里塚が造築された。馬瀬口村を経て、十石坂をつづら折りに下ると、平原入口辺の一里塚を経て間の宿の平原を通り、四ッ谷・乙女を通って唐松の一里塚となる。続いて加増村から蛇堀の木橋を渡って、与良松井・新(荒)町・本町・市町・新町の小諸宿を通過して、西原に近い青木の一里塚に出る。以下牧家の一里塚、田中宿端の一里塚を経て上田宿へ道中がすすむ。

 御幸町にある唐松の一里塚は原形を保っているので、補修し復元して、昭和四十七年三月三十一日、小諸市指定文化財となっている。

 

早川氏撮影 塚と思われるが定かではない早川氏撮影 五輪搭 空輪小諸市誌より転載
 

案内板データベース青木の一里塚

写真オープンデータ

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