まず初めに、このページは長野県長野市在住のI様より、貴重な情報を頂けたおかげで作成することが出来ました。この場をお借りしましてお礼申し上げます。

日本で最初の森林軌道はいったい、いつでどこなのか?

横浜新橋間を蒸気機関車が走り始めたのが明治5年です。日本の森林ではどうでしょうか。先人の方々も探しておられて、「林業技術史第4集 日本林業技術協会編 昭和47年発行」に、日本で最初の森林軌道についての記述がありました。抜粋しますと。

明治29年(1896年)に、東京木材株式会社が、神奈川県津久井郡茨菰ホオズキ山御料林に敷設した木軌道が最初だろう

となっていました。ただ、この記事には明確な参照文献もなく、神奈川県相模原にある茨菰山などをネットで検索しても、森林軌道について何もヒットしませんでした。できる限り、敷設当時に近い時期に書かれた文献を探し始めました。

すると、いつもの大日本山林会報告にあったのです。第168号明治29年12月発行 19コマ目の「農科大学の修学旅行」です。明治29年11月に河合指導教官に引率され、農科大学生たちが神奈川県津久井郡茨菰ホオズキ山御料林を見学に行った時の報告です。その一文に「軌道運材を用いたるは我国に於て始めて見たる処にして最も著しき改良の点なり」とあります。著者は河合指導教官自身です。ペンネームは「琴山」。この茨菰山御料林に関係する方々が凄いんです。最後に述べたいと思います。

 

ここから、神奈川県津久井郡茨菰山御料林で働く木軌道をご紹介します。

高野山同様に、官が立木払下げを行い、民が伐採を行うパターンで、御料局が立木払下げを行い、東京木材株式会社が当該御料林の伐採作業を行っており、その中で、軌道運材を行っていました。

文中から抜粋します。

「トロック」:長さ六尺七寸 幅一尺九寸 鉄輪四個(直径九寸 ) 重量全体二十五貫目 最大積載重量六百貫目

「軌道」:木軌 幅四寸 厚さ二寸五分 長さ二間 上面の内部に接する角に鉄板(巾一寸厚さ一分)を着す 木軌二条を貫(巾三寸 厚さ二寸五分)四本で結合し、巾五寸六分とす

「枕木」:雑木の枝木(長さ約四尺)を三尺毎に用ゆ

「延長」:3カ所に敷設され、合計千五十八間

上記の説明中、「木軌二条を結合」の下りは、想像力が乏しく理解できないのですが、それ以外は「紀州尾鷲地方森林施業法 明治38年発行」に掲載されている木軌とよく似た構造です。因みに尾鷲の軌間は二尺です。

出典 大日本山林会報告第168号 明治29年12月発行 農科大学の修学旅行 雑報

確かに、木軌道が御料林の山頂付近を走っています。現代の地理院地図で確かめてみると、元軌道敷きと思われる里道を見ることができます。ネットなどで探しても、まったくヒットしないので、地元自治体や森林管理局、果ては林鉄ファンにさえ忘れられてしまっているのかもしれません。

今回、最も驚いたのが、この現場を仕切っていたのが木曽の人たちだったということです。中村弥六自身が長野出身ですので、地元の職人を呼び寄せたのだと想像されます。そして、当時最先端の木軌道を勉強させたのではないでしょうか。そして、今度は日本で最初の森林鉄軌道である、木曽御料林の阿寺軽便鉄道につながったのではないか。阿寺軽便鉄道との繋がりについては完全な「夢」ですが、可能性零というわけでもないと思っています。

何かすごくないですか? これで、明治29年の茨菰山御料林が、日本で最初の森林軌道であることがほぼ確実となりました。ただし、明治29年の記事に載っているというだけで、いつ開削されたのかは不明です。

実は、木曽の鈴木美睦氏の登場には別の理由があったことが中村弥六氏の手記で判ります。「明治林業逸史続 233頁 明治初期の林政漫談 中村弥六著」から抜粋要約しますと、

”明治11年6月に、地理局内に作業課が出来て、伐木や殖林のことを掌ことになった。伐木の収入に由で支出を弁ずる所の特別会計だった。従って収入を挙げるために伐木を初めることになった。伐木運材の皆目解らぬ素人の寄合なので、何年経つても出てこない。困った揚句木曽山から、鈴木美睦という14歳から50余年山の仕事をして居るという鍛錬者を頼み、予算超過でやっと5年越しに目的を達したといふ珍聞もあった。”

以上の鈴木氏の実績が買われて、関東での斫伐の仕事を任されていたのではないかと推測しています。

 

この記事に登場する方々を改めてご紹介します。

中村弥六氏 日本で最初の林学博士3名のうちの一人であり、日本に最初に索道を紹介した人(大日本山林会報第24号 綱仕懸運材法図会 34コマ)でもありました。更に大阪や名古屋では当たり前だった、木材生産業と木材販売業の兼業が、東京ではまだ、それぞれ独立していた時に、明治27-28年頃に深川木場に貯材掘を得て、東京で初めて生産と販売の兼業会社である、東京木材株式会社を起業しました。もしかしたら、最初の大きな仕事がホオズキ山だったかもしれません。長野県出身。

河合鈰太郎氏 林学博士で、第168号の記事の著者。日本で最初の軌道運材を見学した博士が、台湾の阿里山森林鉄道の父と言われ、現地に氏の記念碑が立つ。ペンネームは琴山。門下生に二宮英雄氏がいるのですが、この方は青森大林区署土木主任技師として、日本で最初の森林鉄道である津軽森林鉄道建設の陣頭指揮を執っています。また、この方は阿里山作業所林業課技師として建設に直接関わっていました。

鈴木美睦氏 徳川林政史研究所所蔵の「木曽山図」の作者。この図を描いたあと、茨菰山を取り仕切ることになる。

もし、茨菰山で働いていた木曽の方々が、阿寺御料林に関わっていたら凄いですよね。