明治42年度から明治45年度の予定で、高野山林道全線軌道化計画が実施されます。当時、椎出から塵無土場(字金時橋)は木馬道だったので、軌道化工事が行われました。木馬道は、袋尻土場-椎出土場間と同様に、新高野街道上に敷設されていました。このルートは、主に山の尾根を行き、結構な勾配があります。軌道化工事のルート選定は、この参詣道を避けると共に、手乗り下げが可能な、緩やかで継続的な勾配を確保できることが必須でした。そこで、現行ルートに比べ遠回りになりますが、不動谷川沿いを進む、細川経由のルートが選定されました。

 細川-神谷間は、明治20年代に木馬道開削計画がありましたが、結局実施されることが無かったルートです。細川-浦神谷間は里道はあったようですが、街道と言えるような大きいなものは無かったようです。更に、浦神谷から神谷間は、馬廻道という、神谷-浦神谷-山越えで不動坂の清不動に至る、京・大坂道の馬・荷車用のバイパス道しかありませんでした。このバイパスも、明治8年に四寸岩を通る高野往来が改良されたため、利用されなくなっていたと思われます。(現在の浦神谷-新極楽橋-神谷のルートは昭和になってからの開削です。)

神谷インクライン

 普通の軌道としては、不動谷川をこれ以上遡れなくなったので、釣瓶式複線のケーブルカーである「制動斜面(インクライン・延長295m・軌間2呎6吋・18封度軌条)」を設置します。明治元年に、日本初の軌道が設置された北海道の茅沼炭鉱にも築設されたもので、榎本武揚が「インクラインウェイ」と紹介しています。また、足尾銅山では平野富二の提案で、ドコービル鉄軌による125mと275mのインクラインが、明治18年に開削されます。大正2年当時、森林鉄道では最初、もしくは最大延長であると思われます。(確証はありません)

国立公文書館 太政類典外編 明治8年4月 和歌山県管下紀伊国高野山へ新道を開削す

広報あしお 平成16年7月号 足尾の産業遺産

神谷土場

 明治25年頃には設置されていたと思われます。当時の文献では「森ノ奥」と字名で記されています。想像ですが、神谷土場という名称は、明治38年の官行斫伐開始頃に命名されたのかもしれません。

 袋尻・細川の各土場は平ら、入郷は河岸段丘上にあるので棚田状ですが、神谷土場は、山(丘)の斜面を利用している非常に珍しい土場です。神谷土場は高野山国有林に接する民有林にあります。これは、明治20年代に行われた官林立木払下げ方式の影響と思われます。神谷土場を最初に開設したのは、立木払い下げを受けた民間業者だと思われます。そう考えると、神谷隧道の部分だけ「コブ」の様に官地が突出している理由が理解できます。隧道を開削するために官が購入したのです。推定ですが、明治37年12月に、高野山林道開削開始時に行われたと思われます。

 神谷土場の規模ですが、現在判明しているの正確なのか、更に広がっているのかはまだ確定していません。

未解決問題 神谷インクラインの廃止時期

 現在発見されている施業案や事業概況書では、高野林道幹線(軌道)の延長は、昭和31年に九度山-細川間の10kmとなる迄、全て20km以上あります。これは、自動車道に改良されるまで、林道台帳上、神谷インクラインが残り続けている事になります。しかし、昭和25年に6林班線が開削され、神谷から極楽橋に軌道が敷設され、牛馬道に改良されていた極楽橋線を昭和27年に再軌道化され、神谷インクラインを使用せずに塵無土場から、細川土場まで直通運転できるようになりました。この、昭和25年あるいは昭和27年以降、神谷インクラインは本当に稼働していたのでしょうか?まだ確証が得られていません。

 昭和31年に、高野林道幹線が自動車道化が完成した頃、3林班線は軌道として稼働し、神谷インクラインの撤去が終わっていた時期があることは判っています。