伊達健吉の墓戒名

 

九度山の入郷には第2次伊藤内閣外務大臣として不平等条約の改正(条約改正)に辣腕を振い、カミソリ大臣と呼ばれた陸奥宗光の弟である伊達健吉の墓がある。健吉は体が弱く、わずか九年の人生であった。

宗光と健吉の実父であり、紀州勘定奉行を務めた伊達宗広が、いわゆる伊達騒動により和歌山十里四方の所払いを受け、一家離散となった。宗広は田辺へ、宗光は健吉、伊達五郎宗興(陸奥宗光の姉婿)とともに橋本を経て九度山に流れ着いた。

その後、陸奥宗光は江戸に上がるために脱藩をすることとなる。周りへの迷惑を懸念し、岡家や入江の庄屋の後押しによって寺男として高野山に上がった。その後、江戸に行く。

九度山町入郷の墓地にある陸奥(伊達)宗光の弟謙吉の墓を嘗て庄屋で陸奥の面倒を見た玉置氏の許可を得て撮影した墓石を掲載します。  紀州藩の勘定奉行の陸奥の父の左遷(田辺に)により子供たちは和歌山城より十里以遠への所払いとなり橋本経て最後は入郷村に五年間暮す。弟がなくなり墓石が残る。

 

 

右下の小さなお墓