天目山の戦の後、真田氏は徳川氏に仕えましたが、北条氏との和睦の件で家康と対立、昌幸の長子信幸は徳川氏側に残りましたが、昌幸と幸村は豊臣秀吉に仕えることになります。

1600年(慶長5年)、天下分け目の関ケ原の合戦で幸村は父と共に西軍に加わり、上田城にあって徳川秀忠の西上を阻止し、秀忠は関ヶ原の戦いに間に合いませんでした。

しかし西軍は敗退。昌幸・幸村父子は死罪に処せられるところでしたが、東軍についていた兄信之と本多忠勝の嘆願により、家康から高野山蟄居を命じられます。

これに従って同年10月9日、昌幸・幸村父子は真田家の菩提寺である高野山蓮華定院に身を寄せました。昌幸53才、幸村33才の時のことでした。

高野山蓮華定院に身を寄せて間もなく、妻子との生活を許された昌幸・幸村父子は、その年の冬に庵を九度山に移しました。